ラジオ放送発の哲学への道案内【哲学案内 谷川徹三】

話し言葉で書かれた哲学入門書

本書は昭和29(1954)年、中部日本放送「教養講座」中の「哲学案内」(全13回)で話された内容を本にしたものだ。

もともとラジオで放送された内容で、哲学の詳細な内容を伝えるというより、「哲学とは」「哲学をするとは」についての多様な視点からの解説を試みている。

哲学入門書はその多くが原著よりも難解でわかりにくい印象があり、実際解説本のほうが読みにくいという事実もあるが(そのせいで哲学自体が難しいものと思われている)、本書は話し言葉であることもあり抵抗感なく読み進めることができる。

講談社学術文庫という、一般向けとはいえ学術的にも厳密性を求められる文庫シリーズにあって、本書は非常に薄く、本文は86ページ程度の本だ。

出版年代もまだ戦後10年経っていない時期であり、現代の文化レベルに慣れてしまった私には、かなり難しいのではないかという警戒感を思いこさせる。

しかしながら本書は、繰り返しになるがラジオで話すための内容である。

それゆえ、出版年代が古いにもかかわらず、私レベルの素人でもかなり読みやすく、哲学それ自体と哲学することについての理解を深めることができる。

隠れた名著なのかもしれない。

本書のテーマ

本書は13回にわたってラジオで放送された内容が本になっている。

それゆえ各章でゆるく繋がりはあるにせよ、読み切れる内容となっている。

本書の目次を引用すると、

まえがき
1 哲学と哲学すること
2 ソクラテスとプラトン −哲学と社会生活−
3 物を考えるとはどういうことであるか
4 人間的出発と体型的出発 −哲学的思考の二つの型−
5 哲学と科学
6 哲学と宗教
7 哲学の三つの類型
8 アトムとイデア
9 唯物論と唯心論
10 観念論と実在論
11 形相と質料
12 主観と客観
13 今日の時代における哲学の必要性について

となるが、哲学の全体像をザッと説明した上で、現在(といっても本書の時代背景から1950年代)における哲学の必要性を引き出す構成なっている。

この本が約70年前に出されてたことを考えると、哲学解説の型としてはやはりセオリーがあるのだろうと言える。

現在でも哲学の入門書的な本では、その言い回しや解説の切り口などが異なるくらいで、大体がソクラテスから始まって今日における哲学の役割を説いてまとめている。

本書がとてもよい本だなと感じたのは、入門として割り切っており、個々のテーマに中途半端に立ち入っていないところだ。

86ページという薄さ、これはラジオの放送時間という時間制限のためであると思うが、その制限のために重要で押さえておくべきところだけをしっかり理解できる構成となっている印象。

もっとがっつりと哲学的な読書体験をしたいと思う方には、本自体を見かけた時の印象は物足りないと感じると思う。

しかし、この本をぜひ手に取ってみて欲しい。

一通り哲学の勉強をした人や個人的に哲学書を読むような方にとっても、「哲学」を他者と論ずるにあたっての論点整理ができることであろう。

哲学が存在する意義を考えるきっかけになる

この本の最終章には、「今日の時代における哲学の必要性について」という章がある。

ここは本書のまとめ的な位置付けであるとともに、哲学入門書としては必要不可欠な章だ。

なんなら哲学や倫理学の教科書に書いてあってもおかしくない内容。

それは、現在の教育や学問は科学技術偏重というか金儲けに偏りすぎていると感じるためだ。

特に日本においてはそれが顕著ではないかと感じている。

私はもともと理系(工学部)出身であり、その恩恵を受ける側の立場にいた人間である。

しかし理系・文系の分け方や技術・工学だけが産業や経済の発展に役立つ、だから尊い、みたいな価値感には違和感を持っている。

技術革新や偉大な発明の裏には、斬新な発送を生み出すだけの豊かな文化的素養が重要であるが、私が過ごた世界では、いわゆる文系的な学問が軽視されているように感じたためだ。

こうした教育や学問分野での雰囲気が遠因となって、今日の日本の凋落が招かれているのではないかと思うのだ。

価値感より深い認識を改めるツールとなりうる哲学

個人的な視点では、おもいやりの心や礼儀正しさが注目されがちの日本人だが、現実社会における我々日本人の心の貧しさ、意地の悪さは目を見張るものがある。

島国根性と言ってしまえばそれまでだが、私は民族的性質が要因ではないように感じる。

経済や産業の基盤となる人間の心の豊かさが見過ごされてきたせいで、その影響が経済界などへの実害としてあわられているのではないか。

私はそういった面から、一度立ち止まって自省を促す手段として哲学的思考の導入を提案したい。

今でこそ哲学カフェなどといった取り組みが増えてきたり、哲学は大切な学問分野だという認識が広がってきたように思う。

だがまだまだ一部に過ぎない。

失われた30年といわれる日本の経済の停滞は、日本社会を構成する私たち日本人の精神性の成長をも停滞させている。

今こそ実利ばかりを追い求める姿勢を改め、精神性の重要さに気づく時なのではないか。

70年前に書かれた本書の最終章には、本質的な視点が備わっている。

つまり哲学が今日において重要とされるのは、そういうことなのだ。

時代を超えて重要な学問であり、すべての学問の祖でもある哲学こそが、閉塞感に包まれ希望を持てない私たちへの復活のヒントが隠されている。

哲学案内

谷川徹三 講談社 1977年06月
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ポリアモリー 複数の愛を生きる 深海鞠絵 著

重要な視点を提供してくれる一冊

誰もがこうした問題で悩むわけではないのかもしれないけれど、きっと同じようなことで悩んでしまう人もそれなりにいるんじゃないか。そう思ってなんとなく検索した時に見つけた本。

見つけた時、やっぱりあったと思った。

社会的には結婚という制度があるほど、一対一の関係が基本であり、ここから逸脱することは倫理的に非常に問題があるとされている。

一方、人間は複数の異性と関係を持つことを前提に進化したから生殖目的ではない行為を行う、などという説もあったりなかったりする。

きっと人間の性質として持っているものをそのまま許容してしまうと、種全体としての利益が最大化できないから一対一の関係性に限定する制度が確立されているのだろうと思う。

そんな、読む前から色々と考えてしまう本。

 

対複数の関係の実践

ポリアモリーという用語はあまり馴染みのない言葉だと思う。

この言葉が意味するところは乱暴に行ってしまえば複数の相手と関係を持つことである。

一般論としては倫理的にアウトなやつである。

だが、いわば禁忌とされている関係を構築することを宣言し、それを実行している人々がいるというのは非常に興味深いことでもある。

この本を手に取った時に思い浮かんだのが、彼女が80人いたという岡田斗司夫氏だ。

彼のことはよく知らないけれど、このことについて語る動画を視聴したら彼なりに誠実に関係を持っているようだった。

かつて配偶者だった方とも離婚はしているが現役の彼女として付き合っているようだし、複数の関係を持つためなのかはわからないが、貞操義務がある婚姻を解消してまで現在の状態にいるのだから、それなりの覚悟もあったのだと察せられる。

 

誰もが実践できるかは別問題

私個人としては、好きなものはしょうがないと思うが、自分のパートナーが複数の相手と関係を持ち、私もそのうちの一人だったとしたら、それはなんだか複雑は気持ちにはなる。

なるけれども、時系列で見れば、結果的に複数の相手の中の最後の一人(関係を継続している時点では)となるわけであるから、もしかしたらその時間感覚を一旦外してしまえば案外受け入れられるのかもしれない。

逆に私自身が複数の相手と関係を持つのだとしたら、それはそれで疲れてしまいそうだ。

そこまでの甲斐性もないだろうし、どうしても関係の濃淡には偏りが出てきてしまいそう。

もしも倫理的にも法律的にもこれが許容されるとしても、私は実行しないだろうとは思う。

だが、こうした関係性を受容する雰囲気が社会にあったとしたら、それはとても気持ちが楽になるし、もしかしたら結婚に対するプレッシャーも軽減されるのかもしれない。

 

現行制度下での苦しみの一例

私個人としては結婚するときにはマリッジブルーというやつになった経験があり、何度も結婚するのをやめようと思った経験がある。

毎日100回くらい婚約破棄したいと言おうと悩んだくらい。

その理由はお金のことや子供のこと、将来のことなど色々とあったが、一番下衆な理由だが最も感情的に引っ張られたのは、もう他の異性と性的な関係を持てないんだということ。

そのせいで、これまでそんなチャンスもなかったくせに、ひどく絶望的な気持ちになったこと。

結婚前は可能性が低いにしてもゼロではなかったものが、今後一切なくなる、ゼロになるということに耐え難い苦痛を感じたのだった。

自分自身もこれが理由の最も大きな部分を占めていることに呆れ、こんな理由は認められないし、マリッジブルーなんてみんな乗り越えるものだ、と無理矢理ねじ伏せて結婚してしまったのだった。

結果的に別の理由で離婚することにはなったが、離婚できたときにはなんとも言えない解放感というか、人生を取り戻した実感があったのを覚えている。

結婚自体が社会的に優遇される制度ではあるが、実際に結婚することは生物としての尊厳を奪われるような苦しみが私の場合には伴った。

それはもしかしたらポリアモリーを許容する社会なら、解消されるか軽減されるかもしれない性質のものでもあった。

だから本書を読む前にはかなり期待感が高まっていた。

 

本書の内容

肝心の中身については、著者がポリアモリー実践者のコミュニティーに入って生活を共にするなかでインタビューしたり情報収集を行う様子が描かれている。

それらを通じて著者の考えや感じたことなどが記述されていく形。

本書を読んでそこまで感銘を受けたかというと、実はそこまででもない。

取材先が日本ではないということも、当事者意識を持って本の世界に没入しきれなかった要因かもしれない。

私たちが所属する社会においてポリアモリー実践者がいるというのなら、その意外性やいろいろ面倒臭い日本社会での実践における苦労なども共感しやすかっただろう。

それに自分が同様の問題を抱えた時のヒントとしての活用もしやすかっただろうと思う。

 

本書の存在意義と読後に受けた感覚

だからと言って本書の価値が下がるわけではなく、一対一の関係を基本とする社会において、複数の関係を同時並行に構築してそれを維持することを実践している人々の状況を発信することは、とても意義のあることだと思う。

私自身、本書を読んで救われた一面もある。

人は必ずしも一対一の関係に縛られる必要はないのだ、という思考の鎖を解くことはできた。

それと同時に複数の関係を同時にもつことの現実的な問題なども知ることができた。

今後一切、ポリアモリーのようなことがないとは言えず、もしかしたら自分もその一員になる時がくるかもしれない。

その時に役立つ情報としての価値もあるし、なによりこういう在り方もあっていいんだと思えたことが、私にとって感情的な部分で大きな慰めとなったことは否めない。

むしろ複数の愛する人が存在する中で、一人に絞って他を切り捨てる必要がないという可能性を感じられたことは、心の深い部分にある希望のようなものが救われたようにも思えた。

それは結局、決断することのできない弱さを、弱い者同士で傷の舐め合いをしているだけなのだとしても、それが救いとなるのならば肯定してもいいのではないかと思う。

ポリアモリー複数の愛を生きる
深海菊絵 平凡社 2015年06月17日頃
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孤独のチカラ 斎藤 孝 著

孤独のチカラ (新潮文庫)

孤独こそ力の源泉

SNSをはじめとした繋がりが発達し、寝る時以外は誰かと繋がってる現在は、「孤独」を忌むべきものとして捉えられているように感じます。

私は孤独であることは自分にとって必要であると感じ、意識的に孤独である時間を確保するように努めてはいますが、絶えずスマホには他者からのコミュニケーションの要求が届きます。

現在、他者との繋がりを重要視し、集団から浮いたり爪弾きものにされないために不本意ながらコミュニティに合わせている、それによって苦しんでいるという人が多いのでは無いでしょうか。

本書は、人間には本来大切な要素、自己へ「沈潜」し、内面を磨き上げるプロセスである「孤独な時間」に再び注目するために、いかに孤独が大切で必要なものであるのか、また孤独がもたらす膨大な果実についての説明がなされています。

もはや一種の哲学書の域に達しているのでは無いか、そう思わせるほどの深みが、本書は纏っているように感じます。

 

読書論の著者というイメージ

本書を書いている齋藤孝氏は、書店でよく見かける「読書法」関連の書籍をたくさん出版しているので、お名前は知っておりました。

初めこそ読書法の斬新な視点に感銘を受けて買い集めていましたが、さすがに大量のご著書に食傷気味となってしばらく離れている状態でした。

そんなとき本書『孤独のチカラ』という、これまでの著書とは一風変わったテーマの本を書かれていると気になり手に取りました。

「孤独」という、私が求めてやまないものであり、一方で周囲に理解されにくいもの、というテーマを扱っていること、またこの著者が「孤独」を扱うことに対する興味が強烈にわきおこってきたために衝動的に購入したのが本書を読むきっかけです。

著者自身が本書でも語っておりますが、ご本人としては深い孤独の期間を過ごしているにもかかわらず、その雰囲気が出ていないと悩まれているようです。

しかし私のように見るからに暗い、翳りを纏っていると言われる者からしたら、深い孤独をうちに秘めつつも、”静岡の青い空”のようなさわやかさを放てる著者は、逆に尊敬の眼差してみてしまうなあ、とも感じるのです。

 

読むタイミングによって得られるものが変わる

この本は、自分の精神状態によって触れる対象から汲み取ることができる感情的ゆらぎが変わってくる部分が大きいのかな、と思う内容の本です。

私は現在、無職で1年以上過ごし、どこにも属さないまさに孤独な状態です。

そして社会のとの繋がりをそろそろ持ちたいとも思い始めている状態でした。

そんな時にこの本を手に取り(精神状態がこの本を求めたのでしょう)、読むことができたことで、これまでの自分のやってきたことは決して無駄では無く、これから飛躍するための充電期間であったのだと思うことができました。

一方でそこまで孤独に対して当事者意識がなく、なんとなく孤独が大切だとは思っているがそこまで切羽詰まっていない状態で読んだ場合、そこまでのインパクトがあるのかどうかは謎です。

読む人によっては、おっさんが若い時にした苦労の自慢話…と受け取る可能性もなくは無いのだろうなとも感じたのは正直なところ。

人によっては自分の中にある孤独性を見ないように目を逸らしていることもあるでしょう。

そんな人にとっては、おっさんの回想一人語りに見えるのでは無いかと思います。

そう入ってもこのタイトルとこの表紙、これに反応して購入して読むほどの人は、そもそも孤独が必要だとわかっていて、それでも社会から理解されない葛藤の中にいるケースが多いはずなので、しっかり琴線に触れる人が買うのだろうとも思います。

で、私はしっかり琴線に触れたのでこうして感想文を書いています。

この著者に対する印象がガラリと代わり、またこの人が書いた各種読書論や言葉に関する著書を再読したいと思うと同時に、こんな深い孤独を抱え、そしてそれをチカラに転嫁した人のエネルギーを感じたいと思うのでした。

文庫の中でも安い部類(490円+税)であろう本書、そんな本がここまで人に強い影響を与えるということを再認識させるすごい本でした。

孤独が怖くてつるんでいる「その他大勢」と化した諸君にこそ読んでもらいたい一冊。

 

奥付

『孤独のチカラ』新潮文庫 さ-54-6

平成22年10月1日発行

令和2年5月25日八刷

著者 齋藤孝

発行者 佐藤隆信

発行所 株式会社新潮社

ISBN 978-4-10-148926-1

西洋哲学史 今道友信 著


西洋哲学史 (講談社学術文庫)

「西洋哲学史」の決定版とも言える一冊

西洋哲学を学ぶ上で重要なのが、まず思想が作り上げられる歴史を学ぶことです。

哲学史を知っても哲学をしたことにはならない、なんて言われたりもします。

しかしまずは哲学とはどんなものなのか、どういうテーマについて考えられて、どのような仮説を経て、どうやって1つの思想として形成されてきたのか、それを知ることが自ら哲学することへの基礎力へとつながっていくと言えます。

そんなわけで西洋哲学史を学ぶ意義というのは非常に大きいのです。

そしてその重要度に比例するように「西洋哲学史」というタイトルの入門書は有名な哲学者の先生方のものも含めて、たくさん出版されています。

そのどれもが素晴らしい内容の本ですが、本そのものの読みやすさや読み手の習熟度などによっては、どの本を選ぶのかがとても大切になります。

高名な哲学者や先生が書いた本だから間違い無いだろう…と思いたい気持ちもあるのですが、すごい人が書いた本というのは、「教えることに対してすごい」人でも無い限りはとても難解な本になってしまいます。

従いまして、入門書という位置付けである西洋哲学史の本であっても、どんな著者のどんなスタンスで書かれた本なのか?を考慮して読む本を選ぶことが重要となってきます。

で、これらの「読みやすさ」「初学者も理解しやすい」「知識の網羅度」という点から本書は、とてもオススメとも言える一冊なのです。

この本が読みやすいという印象を受ける理由としては、著者が講義で話した内容を文字起こしして、形を文章に整えたものという理由があげられます。

話言葉は自然に頭に入ってきやすいですし、書き言葉よりも難しいことを丁寧に説明してくれる(説明の言葉が多い)傾向が強いように感じます。

一度通読するだけではさすがに完全に理解することは難しい(特に初学者の場合)ですが、話し言葉で書かれていることや説明が丁寧であることからも、繰り返して読み進めれば類書よりはかなり理解しやすい「西洋哲学史」の本です。

ソクラテス以前の哲学から始まる哲学史

西洋哲学史はソクラテスから始まる、という認識が一般的ですが、今回きちんと「西洋哲学史」の本を通読したことで、なんとなくぼんやりしていた「ソクラテス以前の哲学」についても整理することができました。

高校の倫理や哲学の授業でもソクラテス以前に世界を理解しようとした人々について触れますが、正直なところあまり存在感がありませんでした。

ところが本書ではソクラテスが現れるために必要なステップとして、タレスによる「すべての根源は”水”である」などの自然を理解しようとする思考の挑戦も紹介されています。

大人になってから改めて哲学史を学ぶことの意義は、なんとなく知っているけど複雑で苦手意識がある分野についても、テストや受験などのプレッシャーとは関係なく自分の知的好奇心にのみ依拠して学び直せるところだなとも思えるモノでした。

ソクラテスが「哲学の祖」と言われる理由も、この本を前から読んでいくと納得できます。

それは哲学が自然を理解しようとする観察と思考の試みから、人間とはなんなのか、幸せに生きるためにはどうするのがいいのかを考える形へと転換されたことが大きいと言えます。

いまでは哲学と言えば「いかに生きるべきか」を追求する学問であるという認識が広まっていますが、そもそも日常生活を営む上でそんな思考は全く必要ではありません。

日々の暮らしや生きていくことで精一杯だった時代から、思考にリソースを割くことができる時代へと変化していったことも、こうした哲学そのものの中身の変化から窺い知ることができるようになります。

 

プラトン以降の哲学はそれに注釈を加えているだけ

プラトン以降の哲学の発展を説明するときに、プラトン以降の哲学はプラトンがいったことに対して注釈を加えているだけだ、という風に言われることがあります。

それくらいプラトンが説いた内容はカバーする範囲が広く、また深い洞察がなされていたということでもあります。

そんなプラトンからのちの世代へと歴史を辿っていくと、なんとなくどこかで知っているような、聞いたことがあるような内容の細かい解釈を厳密に求めていっているようにも聞こえます。

本書のような西洋哲学の通史を読み通してみることでわかるのが、そういった哲学の歴史、思考の積み重ねが体感的にわかってくる感覚です。

とは言ってみたものの、そんな感覚が私だけの独自のものだったらなんか申し訳ない。

そうした体感的に得られるものも私は感服したところではありますが、個別の人物について認識を改めさせられたと感じたのが、エピクロス派と言われる快楽主義についてです。

なんだかこの一派の考え方、現在の日本(私自身もこの考えに近い)で広まりつつある思考に近いというか、その本質をついているかも…という印象を得たのです。

中世は暗黒時代なのか?

堺屋太一氏による『知価革命』で触れられていた、「現在は物質文明優勢の社会であり、それは中世を挟んで1つ前の物質文明であった古代との共通点がある」という視点を思い出しました。

だから現代人的視点で歴史を見てみると、中世は暗黒で古代のほうがより発展しているように感じるのでしょうね。

本書で記述されている中世の哲学的視点の変遷を追っていくと、まったく暗黒な感じではなくむしろ神について考えるために人間についての理解も深めようとしている、知的活動としてはかなり旺盛な印象を受けたりもするのです。

中世が暗黒時代で、ルネッサンスによって文化が復興したなんて言われていますが、これこそ現在の価値感(物質優勢)によるものの見方だなあ、とも感じられるのでした。

哲学史読んでいるだけなのに、他のことに関しても触発されるこの本、なんだか凄まじい存在感を放っています。

近現代になると専門分化されていく

近現代の哲学はもはや「なんだかわからないけど、なにやら難しそうなことを延々と考えている学問」という、かなり偏った認識を持っています。

そしてその認識は、本書を読むことによって多少は整理されていく感覚は得られるのですが、西洋哲学史全体として見た時の近現代の哲学はとても細かい部分の正確性を高めていくようにも受け取れました。

先述したような、プラトン以降の哲学はすべてそれに注釈を加えたもの、という認識をより確かなものにするように、プラトンが描いた大きな枠組みの中の細かい部分を、より正確に、より厳密に理解していく試みだという風に感じるのです。

そんな風に西洋哲学の全体像をなんとなく掴んだ後に現在の最先端(と、言っても本書が書かれてから時間がかなり経っていますが)の考え方に触れると、なぜ今その問題があるのか、そしてどのようなアプローチをしているのかの根拠から理解できるようになる気がします。

ただなんとなく難しそうで自分に直接関係なさそうなことだという認識から、古代の哲学から順を追っていくことで自分も歴史とともに成長できている、そんな不思議な読書体験になっていたのでした。

こんな体験ができるが故に、この本は数ある哲学入門書、西洋哲学史の中でも、多くの人がこぞっておすすめする一冊なのだなと理解しました。

あくまでも私なりの理解ですが。

なので、なにかのご縁でここに辿り着き、そして最後まで読んでしまったアナタもぜひ本書を手にとって読んでみてください。

哲学史から入る哲学は、自分自身の思考を鍛えるための基礎体力を身につけてくれること間違いなしです。

禅学入門 鈴木大拙 著


禅学入門

英語圏向け「禅」の解説書

約100年前に書かれた、英語圏(ヨーロッパやアメリカ)向けの禅についての解説書です。

現在の日本人は当時に比べたら生活習慣や思考などのかなりの部分が欧米化しているため、この本の日本語訳を読むことは非常に有意義なことだと言えるでしょう。

私自身、禅や仏教思想に関する興味があり類書を読んだりしていますが、それでも本書に書かれている内容には目から鱗が落ちるような思いがしました。

むしろ当時の日本人向けに書かれている本は、旧仮名遣いであったり言い回しが漢文調であったりするため、その意味を汲み取りにくくなっているため、元々英語だったものを日本語に訳したような文章のほうが読みやすく感じるでしょう。

なんだかそういう事実を知るに連れて、自分たち固有の文化的背景や思想形態、さらにはアイデンティティなどが失われていってしまうのではないかという危機感も感じてしまします。

本書は禅についての知見を深め、本来言葉では伝えられない「悟り」というもの、さらには「禅」そのものについての認識が、「きっとこんな感じだろうな」というレベルにまでは感じられるようになります。

そういう意味でやはり鈴木大拙という人は、偉大であったのだなと感じ入ってしまいます。

 

禅とは瞑想ではない

座禅を組むことによって禅を行う体験をしたことは多いと思いますが、その目的は瞑想を通して精神の安定を図ること、というふうに私は認識していました。

つまり「座禅=瞑想」、そのように認識し、座禅を組むときにも目的を持って行いました。

ところが禅とは、目的を持って行う時点で禅ではなくなり、瞑想とは違うものであると本書には書かれています。

禅とは悟りに至る手段のひとつであり、「座」禅というようにたまたま座っている時に禅を行うから座禅といい、普段生きていること自体が禅でありうるというのです。

生活全てが修行とはよく仏教の修行僧では言われていますが、まさに何気ない毎日の生活や行為の中に見出すもの、何者にも縛られない自分主体の存在を掴み取るためのプロセスが禅なのである、と私が理解しました。

理解しました、というのは、禅や悟りというものは、「悟った」「わかった」と思ったりいったりした瞬間にそれは失われてしまい、決して言葉で伝えることができないものなのです。

その人独自の体験として経験されるものが「悟り」であり「禅」であるのです。

本書でも「あなたが空腹の時に、私が代わりに飯を食ってもあなたは満たされない」というような例示があり、悟りとはそういう自分の体験としてしか得ることができないものだと言われています。

そしてその体験は、だれもがみな同じ条件で起こるのではなく、人によっては庭に突き落とされたり、掃除している時に掃き飛ばした小石が木に当たった音を聞いたりしたことをきっかけに「解る」というのです。

 

禅問答はわけがわからないのが本物

「禅問答」という慣用句がありますが、禅の場では弟子と師とが論理的に噛み合っていないトンチンカンなやりとりをしています。

側から見たら意味がわからないやりとりだったり、とても不合理なことをしているように見えるし本人もそのように感じます。

しかし師匠は「言葉による呪縛」からの開放を目指し、それをサポートするためにそのようなトンチンカンな問答を行っているのです。

ではお笑い芸人のボケのような返答なのか、というとそうでもなく、悟りに至る、禅が溢れている返答や行為を行うことが求められます。

これについては体験として習得するしかないのでしょうが、本書でも「解った」人たち(歴史に名を残すような名僧たち)のエピソードがたくさん書いてあるので、多分こんな感じというのは想像できます。

想像できますが、きっとその想像はその人のなかでの「解った(悟り)」にすぎなくて、もし私が禅を通して悟りを得るとなった場合には、また別の体験として「解る」のだろうなあと思うのです。

むしろこの本を読んで、「悟りってこんな感じだろう」という先入観が生まれてしまった時点で、私はその境地へ至るための途上に、大きな障害を抱えてしまったとも言えそうです。

知識として「禅」を習得しようとするとそれは「禅」から遠ざかってしまうという皮肉な結果になってしまいますが、私自身の認識では、禅の考え方を知ること自体が精神を穏やかにする第一歩ともなるのではないかと思うのです。

禅の目的は悟りを得ることなどと一応は言われていますが、座禅や日常的な禅(心のつぶやきを止めて「五感で感じる」ことに集中する)を行うこと自体が目的と言ってもいいと思います。

それは禅とは無目的であり、禅を行うことそのものがすでに悟りの1形態であるとも私は思えるからであり、禅を行うと意識して心の言葉を止めると、おのずと心のざわつきも落ち着いてくるのです。

これはもしかしたら私自身の「悟り」の形なのかもしれません。

とは言え禅の状態にある時、それは日常を通じて常にそうありたいと思うのですが、本当の自分を生きていると確実に言い切れる状態とも言えるのです。

言葉にも身体にも心のざわめきにも縛られず、本当の自由な状態が「禅」なのだと。

本書でもそのように書かれており、私もそれを感じることがありましたが、私が感じている禅の境地と本書が描く禅の中身について、どちらが正しいとかはないのでしょう。

例え私の体験が禅とは違う物だったとしても、私は穏やかな状態でいられるので結果オーライなのです。

そのくらい禅とは自由で、決まった形がなく、そして他者の体験である「禅」を確かめる術なない、そう思います。

 

過不足のない絶妙な禅の本

この本を読みながら感じたことは、読みながらにして禅である、ということです。

本書の記述内容は、禅とはなにか、から始まって一般的な僧侶の修行の様子や公案の例示などとなっています。

中には名僧たちが悟りを得る際のエピソードも散りばめられており、悟りの代理体験のようなことはできなくもない作りになっています。

そしてこの本は元は仏教的な背景がない欧米人向けに書かれたということで、欧米化したけれど文化的素養は日本的な私たちにとっては非常に頭に入ってきやすい形となっているのです。

著者がそう意図したわけではないのでしょうが、結果的に100年後の日本人にとっても非常にわかりやすくイメージが湧きやすい本になっています。

巷に溢れる表面的に瞑想の脳科学的効能を謳ったようなビジネス書のような薄っぺらいものではなく、禅とは瞑想とは違い、瞑想の要素は含むこともあるかもしれないがそれは本筋ではなく、真の自由を獲得するプロセスであることまで理解ができます。

本当に偉大な人が書いた、偉大な一冊。

それが本書『禅学入門』であると言えるでしょう。

日常の些事に悩むビジネスパーソンに、対処療法的即席瞑想法よりも本質的な禅学入門を。

イエスの生涯 メシアと受難の秘密 シュヴァイツェル著


イエスの生涯―メシアと受難の秘密 (岩波文庫)

密林の聖者になる前の著作

密林の聖者として名高いアルベルト・シュヴァイツァー博士が医師としてアフリカへ旅立つ前に神学者として著したイエス論。

原題では「イエスの生涯の素描」というタイトルになっており、いずれは本書の着想を深堀したうえでのイエスの生涯を記述しようとしていたようです。

ですが結果的にそれは叶わず、日本語訳をした波木居齊二氏が「イエスの生涯」というタイトルを訳文に採用したとのことです。

シュヴァイツァー博士が書いた「水と原生林のはざまで」をたまたま読んだ時にその経歴を知ったのですが、医師になる前には神学者としても将来を期待されており、またオルガン奏者としての才覚も発揮していました。

なんというか、完璧超人なのかと思うくらい色々やってその上優秀だなんて、チートキャラ感が半端ないです。

そんな完璧超人であるシュヴァイツァー博士の若き日の著作、「イエスの生涯」。

 

なんだかとても読みにくい本

博士が若い時に書いたということから、まだ読み手のことを考えて書くという視点がないのかもしれないと思うくらいに読みにくい本でした。

翻訳がマズイ…という可能性もありますが(岩波文庫の場合、日本語が古いことが多い)、この本に限っては原文がそもそも読みにくい形のようです。

本書が書かれた背景には、考古学的なアプローチによって明らかになることが増え、さまざまなイエス像が濫造されるのを憂いて、ここでいっちょちゃんとしたイエス像を書きましょうという訳があったようです。

神学の分野でもこのシュヴァイツァーが書いたイエスの生涯については、異色の本であるという評価がなされており、それは読んでみるとなるほどと思うようなものに仕上がっています。

このようなイエス像を書けるのなら、その後の神学界における発展にも関わって欲しかったと惜しまれるほどの才能だといいますが、門外漢の私にとってはよくわからない話です。

そういう学会内の立ち位置はさておき、この本はとにかく読みにくいんです。

読みにくいのは厳密に聖書のあの場所のあの記述がどうのこうの…というのが多すぎること、そして一文が非常に長くて何を言っているのかを忘れてしまうということが大きです。

しかしそれらを我慢して何回か読み返したり、行ったり来たりすることで読み終えると、まあ確かに聖書を丁寧に読み込めばそうなるだろうなあということ、慣習的に言われているイエスの生涯とは異なる像が浮かび上がってきます。

これは非常に興味深い事実の発見です。

とは言っても、イエスが何をなしたのかとか、イエス自身が生きている時にメシアとしての自覚があったのかなどということは、今の信者にとってはあまり重要ではないのかな?とも思いました。

専門特化した最先端の聖書解釈(当時の)における、生前のイエスによる活動内容やその時の時代背景について、従来の聖書解釈や今(当時)濫造されているイエス像はちょっと違うんじゃないの?という重箱の隅をつつくタイプの内容です。

この本を面白く読める人とは

聖書そのものを研究する人にとっては興味深く読める本でしょう。

また、イエスそのものを人間として捉えたい、日本人的な感覚(遠藤周作的な捉え方)を持ったキリスト者であっても、その人となりに迫る1つの手段として興味深く読める本です。

私はイエスその人がどのようにものを考え、発言し、行為をなしたのか、というところに興味がありました。

それはイエス本人の思想を追うことで、「キリスト教」になる以前の「愛」の実践を知ることになるのではないかと思っています。

この愛の実践の生の状態に近いものを掬い上げることで、巨大組織となり少なからず官僚機構的になってしまった教会のフィルターを通さずに、原初の教え、考え方を知りたいと望むものです。

私自身はキリスト教の信者ではないのですが、新約聖書をよく読んでいくと、遠藤周作が描いたようなイエス像、そのイエスがなした愛の実践こそが人が人として生きるお手本のような生き方ではないかと思えてくるのです。

信仰というある種のフィルターを通さず、人間としてのイエスがどう生きたのか、そして何を目指して活動していたのかをしりたいと思うのです。

そんな欲求に対しても、この本は一定の回答を示してくれています。

やはり厳密に聖書を読み込んで、その上での解釈を引き出すという方法による「イエスの生涯」であるので、論文風の堅苦しさは多分にあります。

そういう本だからこそ、後世の人間による主観的な思い込みや希望的視点を極力取り除いた上でのイエス像が浮かび上がってくるのではないかと思えてきます。

とにかく読みにくいせいで何回も読み返すことになりましたが、そのおかげでシュヴァイツェル博士が説くイエス像の理解はより進みました。

そしてこの本によるイエス像の理解は、他の古典的なイエス像や現代的イエス像を理解する時にも一つの雛形として私の意識の中に確立されることでしょう。

 

イエス論を読むことで聖書の読みが深まる

信者じゃないのに聖書読んでいるというと、ちょっと変わった人ねって言われます。

でも欧米の歴史や哲学をやるにあたっては、この知識はベースとなる考え方なので必須でもあります。

そんなわけで聖書を何度も読み返すことになるんですが、本書のように直接的に聖書の題材であるイエスの生涯について書かれているものを読むと、この本の内容を改めて検討するために聖書を読み始めてしまうんですね。

そして何度も何度も繰り返して読んでいることと、新しい聖書解釈の知識を得たことによって、さらに読み方がマニアックになっていくのを感じています。

まるで熱心な信者のようだなと思いますが、本物の信者は毎週読んでますものね。

そこまでには至らないにしても、信仰というフィルー抜きにして聖書を読むことで、やはり世界一読まれているだけのことはあり、さまざまな知恵を見出すことができます。

今回はたまたまシュヴァイツァーが神学者だったというところに興味を持って読み始めた本ですが、聖書解釈を深めるという点からも有意義な読書となりました。

ただ、この本を万人に勧められるかといえば、それははっきりと「否」と答えるでしょう。。

短いのに本当に読みにくいんですって…。

 

人工知能のための哲学塾 東洋哲学編 三宅陽一郎 著

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇

『哲学対話』が積読消化のきっかけになった

この本は2018年4月に出された本で、実は書店で平積みになっていたのを衝動買いして積読の塩漬け状態に2年間もなっていた本でした。

人工知能の開発は従来の技術開発とは比べ物にならないスピードで進んでいる(と、思っている)ので、今さら2年前の本を読んでも仕方ない…そう思っていました。

しかし先日読んだ『ゼロから始める哲学対話』に触発されて、再び哲学的な頭の体操をはじめようと思ったこと、そして2年間のブランクを埋めるには2年前の本がちょうどよかろうということで読み始めました。

かなり分厚い(382ページ)上にちょっと本のサイズも大きいので、文字がビッシリ詰まっている印象。そんな見た目にも圧倒されての積読長期化でした。

読み始めて感じたことは、この本は「哲学塾」として講義が行われた内容を元に書かれているということで、非常に読みやすい形になっているな、というところでした。

久しぶりに読み応えのありそうな哲学書を手にしたので、これは私に取っては助かりました。

西洋哲学に対する東洋哲学の視点を取り入れる試み

肝心の中身ですが、この本は第零夜〜第五夜までの各論と、最後に総論として章分けがなされていて、それぞれ東洋哲学の視点から人工知能をどうやって作るのかを考えています。

この本が出る前に『人工知能のための哲学塾』という西洋哲学の視点を人工知能の開発に生かすための考察がなされた本があったようですが、今回はそれに対する東洋的な視点も取り入れてみようという試みのようです。

この時点ではまだ西洋哲学編は読んでいないのですが、本書を通読する中でも随所に誰々のこの考え方と似ているとか、この考え方とは対極的などど書いてあるので、知らなくても困らないようにはなっています。

でも深く理解するには、西洋的視点(世界と対峙)に対する東洋的視点(世界の一部)として把握することが重要だなあとは感じました(繰り返しですが、本書だけでもその視点は持つことができます)。

基本的に現在の学問体系は万学の祖たるアリストテレスが作った形、つまりは西洋哲学的視点に基づいた、分割して専門化する理解の方法がとられています。

従って人工知能という工学的技術の探究についても、当然ながら西洋哲学的な思考の枠組みが採用されていると言っていいでしょう。

しかしながら人間の知能(人工知能の雛形)とは、いまだにそのものの定義が決められず、全体像は一体どうなっているのか、そもそも潜在意識という不明瞭な深い領域までもが存在しており、完全なる認識には至っておりません。

そんなときに、西洋的視点だけのアプローチで、より完成度の高い”知能”と言えるものが作り出せるのか?という疑問が生まれます。

本書の著者はその部分に疑問を抱き、東洋哲学的な視点を取り入れてみようというとなったのです。

知能の形成に至る”禅”のプロセス

西洋的な知能の捉え方は、学問体系が分化・専門化していくように、要素の組み合わせで成り立っているとします。

一方東洋的な知能の捉え方は、全体の中の相互作用から生まれる、たまたま今ある状態のそのものを知能とします。

この全く異なる知能の捉え方にまず私自身が驚いたこともあるのですが、これを統合してより自然な状態に近い人工知能のモデルを作ろうとします。

それは、まずは現在わかっている知能を構成するあらゆる要素を組み込んだ、叩き台の人工知能を作ります。

そして人工知能に様々な学習(人間では体験にあたるもの)をさせ、成長させていきます。

そのままでは人工知能には欲望がないので、生き物の知能のような煩悩というようなものがありません。

この世界に対する執着がない(維持すべき身体が世界の中に存在しないから)ためです。

そこで「禅」の考え方を取り入れていきます。

禅とはこの世界に生存させ続けるための身体を持つ人間が、その生存欲求に基づく煩悩を断ち切って悟りを開くことを目指して行うものです。

元々、いわば既に悟りを得ている状態の人工知能に対して、そのままでは人工的であり不完全なままの状態である知能に対して、禅のプロセスを遡ることによる煩悩の獲得を目指そうとなります。

人工知能が”人工”らしさを残している限りは、それは今の不完全な、何かの作業を人間の代わりに行うだけの道具としての存在でしかありません。

しかし人工知能に、人間がもつ人間らしさとも言える煩悩を持たせることによって、より生き物の知能らしさを付与することができるので、ここへ来てやった「知能」であるということができるものが出来上がるようにも思えます。

 

”不完全さ”の付与は魂のようなもの?

これまで人工知能に関する書籍や情報に接する中で、なんとなく違和感というか知能といえないのではないか?という感覚がありましたが、この本を読んでそのモヤモヤが晴れたように感じました。

それは「人間らしさ」という不完全さ、なのかもしれません。

人工知能は所詮は機械であり命が宿っているわけではない、と私は思うのですが、もしその人工的に作り出された知能のようなものに、人間がもつ煩悩(この世界に対する生の執着)を付与されたとしたら、そのものは「生きている」と認識するかもしれません。

この本を読んでいるときには、哲学的な考え方やその思想を説いた人物がたくさん出てきて、いわゆる哲学書の難解な感じがあって眠くなることもありました。

そのせいか、著者の書いてくれた詳細な部分は記憶に残っていないのかもしれません。

その上で本書似たいする私自身の認識としては、人工知能に欲望を持たせることによって人間らしい人工知能が実現し、人間同士の自家中毒状態を緩和できそう、SNS疲れとか閉塞感を軽減できるかもしれない、ということです。

これまで私は人工知能が仕事を肩代わりしたり効率化してくれるものだとばかり思っていましたが、この本にある東洋哲学的な視点を取り入れた(欲望を持った)人工知能が生まれたら、それは人間同士の心理的距離を調整する役割を持つかもしれません。

通信技術の発達によって、人と人との距離が常時接続のような形になってしまい、それによってコミュニケーション疲れを感じている人が多いように感じます。

欲望を持っているかのように振舞う人工知能は作れるのかもしれませんし、発展途上ではそういうものを応用することもあるでしょう。

しかし最終到達点としては、人間にとっての煩悩と言えるようなものを持った人工知能が生まれることによって、より人間臭い、温かみのある人工知能の精神性が作りあげられることになるのではないかと思います。

その過程で人間そものの精神性の解明、その深みの理解へとつながるのではないかと思い、むしろそちらの発展も楽しみに思えてくる読後感を得ました。

ゼロからはじめる哲学対話 河野哲也 編

哲学の原点である「対話」を通じた探究活動

哲学の祖と言われるソクラテスが用いたとされる「対話」を通じて、あらゆるテーマについて深く掘り下げていく方法を解説している本。

そういう期待を持って手に取ったのですが、私が一読して思ったのは、そんな薄っぺらいものではなくて、周囲の人たちへの影響力を及ぼす方法でもあるのだという新しい視点でした。

そもそも本書が書かれた意図は、「哲学対話」「哲学プラクティス」と言われる、哲学的な対話の場を作り上げるためのノウハウ集、ハンドブックとしての役割だったようです。

しかし私自身、本書の編集に関わられた方の中の1人である永井玲衣氏のツイートを、たまたま流れてきたタイミングで見かけて衝動的に注文してしまっていたのでした。

そんなきっかけで本書を手にした経緯もあり、実はこの本が一体どんな内容の本なのか、ということを少々誤解して読み始めていたようでした。

しかしその誤解はむしろ私にとっては新しい世界への入り口に繋がりうる、小さな一歩になり得るものだという実感を得ることになりました。

 

哲学対話という場の作り方

この本のメインテーマは、おそらく「哲学プラクティス」と呼ばれる対話の場を作るための具体的な実践方法を説明する手引書です。

おそらく、というのは私自身の理解としてはそうしたノウハウ集に加え、哲学的考察を深める際の方法としての対話、そしてその対話の進め方や背景、代表的なテーマなどと広くカバーしているので、ただのノウハウ集とするにはかなり盛り沢山の内容と感じたためです。

かつて教員として勤務していた頃には、この本に書かれているような「場」作りについて、ほぼ独学というか、現場の雰囲気や先輩方のやり方を踏襲する形で進めることが多くありました。

そこではノウハウの集積という、経験を積み上げてより良いものにしていくための骨格のようなものや、その背後にある意図、さらには場作りを行う上で得られる効果やその根拠が抜け落ちていたように思います。

そんな現場で場を作らなければならないけれど、その実なにを目指してどう運営すればいいのかが暗中模索と化している指導者の方々にとっては、まさに福音のような一冊ということができる本でしょう。

私も現役の教員時代にこの本を読むことができていたら、もう少し生徒たちに有意義な時間を提供でき、自分で主体的に課題について考えるという姿勢の大切さを伝えることができたのに、という悔しさも感じることになりました。

全面的に称賛しているような感想になっていますが、私個人の主観的読後感としては非常に有意義に、かつ楽しめる内容であり、そしてこれからの生業の一つとしての「哲学プラクティス」的な場作りへのアプローチとして活用したいと思う内容です。

 

哲学自体にも再び興味を持たせる魅力がある

この本を読んでいる中で感じたことは、単なる哲学対話の場作りマニュアルとしてだけではなくて、その場で取り扱うテーマ例を上げていることで再び私自身も哲学分野への興味が復活してきいる、ということが挙げられます。

この本は、哲学とは元々対話という形が主体だったのだということを思い出させてくれ、そして対話でこそ自分1人の思考の呪縛から解放されて、他者というほかの視点を取り入れつつ思考を深めていけることを認識させてくださいました。

読みはじめる前にはやや誤解しているところもあり、正直な気持ちでは気が進まなかったというところもありました。

しかしせっかく買ったのだし「ゼロからはじめる」とも書いてあるから、いっちょ読んで見て、自分も哲学対話の場作りに挑戦してみようかしら?と思って読み始めたところもあります。

そして読み初めてすぐに、哲学対話の意義や歴史と言った、この活動がいかなる意義を持ち、何を目指すことになるのかを知ることになります。

第一章で私の心はガッチリと本書に掴まれてしまいました。

第2節では「対話の意義」についての説明があり、あえて他者と対話を通じて思考の交換を行うことで哲学的思考を深めたり、そのプロセス自体が人間関係をより発展させたりする事実を知ります。

対話というと1対1や少人数でのことを想像しがちですが、ある一定規模のコミュニティ内における対話の意義というものもあって、まともな集団の意思決定にもつながっていくものなのだと知りました。

なんだか、以前勉強していた福祉政策のコミュニティ論のようなプロセスだなあと思ったりもしたのですが、私が習得した社会福祉士という資格・立場は、もしかしたら哲学対話というぷrセスを通じて、地域社会の人々の主体性を取り戻すきっかけになりうるのではと思いました。

福祉は哲学の実践の一例だ、ということを言っていたかつての同僚がいましたが、まさにこのことかと鳥肌が立つ思いです。

私にとって哲学対話や哲学そのものは、福祉というその実践現場の知識や経験と組み合わさって初めて具体的なイメージとして捉えることができました。

これは読者の経験や立場の違いによってその具体的イメージは異なるものだと思いますが、哲学は万学の祖と言われるように探究する姿勢そのものであり、探究する人全てに最適な形でその姿を表すものなのかもしれません。

そうした意味で本書は広く読まれるべき本であり、問題解決に行き詰まったりしている人々にとっての羅針盤ともなりうる本であると私は確信を持っていうことができます。

 

あとは実践するだけなんですが…

今なにも動いていない人が初めて行動を起こすとなると、なかなか具体的な行動には繋がりにくいところもあるかと思います。

私自身も、かつては通信制高校という生徒たちが内面と向き合いがちな現場で教員をしていた経験上、自分の意思が固まっても動けずに悩むというケースを見てきました。

そして私自身も初動に非常に時間のかかるタイプでした。

この本がすごいところは、あらゆる哲学対話、哲学プラクティスについての事例を集め、自分(読者自身のこと)でも実践できる形があるのではないか?と思わせるところです。

教員時代ならまさに学校教育の現場で哲学対話を行い、「なぜ学ぶのか」「なぜ大学進学すべきなのかorしないべきなのか」などのテーマで実践したかもしれません。

本書にはその運営マニュアルまで細かく詳細に、しかもトラブルシューティング的なヘルプリストまで記載されています。

現在は哲学対話を行いうるコミュニティにも属していないので、日々のちょっとした会話や小さな揉め事、あるいは他人と共に判断をする必要がある場面などで使ってみたいとは思います。

本書はまさに「ゼロからはじめる」というタイトルにぴったりの、非常に丁寧で思慮深い内容構成となっている、安心の哲学プラクティス・ハンドブックでした。

今まさに場作りで困っているような人は、今すぐ買って手元に置いて、常時参照できるようにしておくべき、そんな貴重な1冊です。

 

[完全版]生きがいの創造 飯田史彦 著

[完全版]生きがいの創造 スピリチュアルな科学研究から読み解く人生のしくみ (PHP文庫)

臨死体験から読み解く”生きがいの創造”

この本は著者自身も体験したという臨死体験を通じて得たビジョンから、死後の世界椰子後の生命といった客観的には証明し得ないけれど、それがあると仮定した場合に得られる主観的な生きがいを創造する思考法を紹介したものです。

著者がこのテーマに取り組み始めたのが国立大学の助教授で、人事労務方面の専門家として生きがいや働きがいについての理論を研究していた頃だと言うのが、「眉唾」なテーマに一定の信憑性を感じさせます。

大学の先生はそれこそ客観的な視点での主張が求められて、重箱の隅を突くような矛盾点にも答えていく必要がある立場にあり、そんな人が主張するオカルトチックな話題にはそれだけで興味が惹かれます。

そんな先生だった方(すでに退職して、生きがいの創造の活動に専念されています)が書いた著作を、初版発行後にいただいた反響のお手紙やその後の研究成果を更新して取り入れたのが本書ということでした。

死後の正解という、いわは主観的な認識にすぎないものと思われているテーマについて、科学的なアプローチを試みたという点で、かなり画期的だと思える本でした。

科学的手法の台頭で、人間存在の後ろ盾を失った

死後の世界、というのは生きている私たちの感覚では捉えることができないものです。

だから学問として検討するに値しないもの、どうやったって「わからないもの」だからです。

現在は科学の発展によって、物質的にはかなり便利な世の中となっています。

それは学問は科学的手法によって深めらられ、ひとつずつ客観的事実によって証明され、積み上げられてきたことが大きな要因です。

そしてその考え方によると、伝統的な宗教による神や魂といった計測し得ないものは、実際に存在しているということができないと言われていきます。

これは人々が感覚的に感じていた自然への畏怖や大いなる存在や意思に思えるような奇跡に対する否定となり、そして人間そのものの存在理由を脅かすことになります。

現在そのような扱いになっている人間の存在理由について、本書は「スピリチュアル・ケア」という視点を取り入れて、魂というか人間の本質的なところを癒し、そこから生きがいを手にするようなアプローチを展開していきます。

まだまだ一般には普及しきっているとは言い切れない「スピリチュアル・ケア」という考え方ですが、医療や介護といった命を見送る現場では注目されつつあります。

これまでは宗教が死後の世界を説明し、そして自分たちに存在理由を与えいたため、臨床現場でのスピリチュアルケアについては宗教関係者が担っていました。

そのため、特定の信仰を持つ人はそれを信じられるので、救われることができました。

一方で現在はいわゆる「科学教」とも言えるものが広まり、感覚として認識できないもの、客観的に評価できないものを信じないという風潮が広まっています。

現在のそうした思考法は文明や社会の発展については大いに役立ってきたのですが、一人ひとりの人間のあり方や自分の存在への自信のようなものがないがしろにされてきました。

「死」をとにかく怖がる、そして「死」から目を逸らしタブー視するようになります。

これは日常生活でも、抜け出すことのできない閉塞感や理不尽さ、そして自分ではどうにもできないんだという絶望感に繋がることとなり、自殺へと至ることもあります。

この本のすごいところは、かつて宗教が担っていた死生観について、科学的に分析して広く活用し(科学的、というのは客観的に誰が見ても納得できるようデータを集めて分析し、再現可能な状態にすると理解しています)、生きがいを持つ思考法として確立したことです。

かつてパスカルが似たようなことを言っていたのを思い出します(パスカルの賭け)。

信じる信じないより、死後の生命の存在を「仮定」する

この本では、臨死体験をした人々や退行催眠といった前世や過去世の記憶を呼び起こして記録した内容を取り上げています。

私も臨死体験や過去世と言ったものは、無意識のうちに取り入れた記憶の断片を組み合わせて、死に瀕した肉体が生き残るための情報を引き出すためのメカニズムだと思っていました。

ところが本書で紹介されている臨死体験や退行催眠により引出された過去世の記憶が、あまりにもリアルで共通点があり(著者が意図的に似たものを集めたとも言えますが)、どうやら意識の面では共通認識をもたらす何かがあるようだと思えてきます。

著者も繰り返し主張しているように、この本に書いてあることを信じるかどうかは強制していませんし、勧めてすらいません。

しかしもしも本書で伝えているような「死後の生命」と言えるもの、死とは肉体から離れて生きることだ、という考え方が実在すると仮定したら…?

その場合、人生とはわざわざ試練を体験するために「肉体」という制限を加えた修行の場であると言うことができます。

そしてその試練は、生まれる前にこれまでのたくさんの人生を経て課題として残ったものをクリアするために設定された、ちょっと難しいけれど必ず乗り越えられるレベルのものとされ、自分自身で設定しています。

この考え方が仮定されると、今の人生の困難はすべて自分の成長のために存在することになりますから、試練に立ち向かう意義も変わってきます(困難なほど”生きがい”を感じます)。

さらには今生きている人生の前には、これまでの意識体(魂や意識と言った、本質的なもの)が経験してきた膨大な知識や経験値があり、今回クリアできない課題は次回の人生へと持ち越されることになります。

と言うことは、もしも今の人生に希望を見出せずに自殺を図ったとしても、次の人生ではまた同じような問題に苦しみ、それを克服するまではずっと同じ苦しみを持ち続けることになります。

さらに過去に自殺したという記憶が呼び起こされた人の声によれば、自殺した後には激しい公開と、猛烈な反省をするための闇に包まれてそのままでは生まれてくることができなくなる、といことも書かれていました。

本書によれば、自殺すると言うことは、自分で設定した課題を放棄してしまうと言うことにつながりますから、決してしてはいけないことであるともいいます。

このように、本書で紹介されている思考法、考え方を取り入れることによって、自分の人生が全肯定できるようになり、そして苦労や困難に対しても「新しい課題」として自己の成長になるものだと受け取れるようになります。

本書の考え方を信じないにしても、「仮定」として受け止めるだけで上記のような考え方ができるようになるのですから、結局は精神的にとても楽になるということです。

だったら、死後の生命とか信じる気にならなくても、仮定としてこの思考法を取り入れてみて生きていくのも良いのではないかと思えてきます。

信じなくても仮定すると楽になる

本書は特定の宗教や信仰をお勧めするものではなく、あくまで医療現場などで得られた臨死体験、退行催眠による体験を集めて分析したものです。

その上でどうやら人は肉体の死が迫ってくると、宗教や信条に関わらず同じような体験をするようだとわかります。

それはもしかしたら、死後の世界の存在を示唆するものかもしれませんし、脳の構造上、そのような意識体験をするようにできているだけかもしれません。

しかしいずれにしても本書で説かれているような、故人はみんな生きている人を想って常に寄り添い見守ってくれていることや、魂だけの存在になったあとの体験は、今の人生をしっかり生きようと思わせる力があります。

私自身、死後の生命があるとしたら、今の人生では自分から進んで試練や困難に立ち向かって行こうっって思えるほどに視点が変わりますから、やはり本書で説かれている視点や思考を取り入れることは、「生きがいの創造」に繋がるものと言えるでしょう。

もしも自分が絶望するような深い悲しみに直面したとして、そして本書のような体験である故人との対話や臨死体験をしたとしたら、そこから現在の人生の「本当の目的」を悟って、それこそ一生懸命に生きて行こうと思えるのかもしれません。

 

まんがで読破 武士道 新渡戸稲造 著 

武士道 ─まんがで読破─

新渡戸稲造の『武士道』

今の10代後半より年齢が上の人はきっとよく知っている、かつての五千円札の人が書いた、元々は英語で書かれた『武士道』です。

原著はもとより、日本語訳された岩波文庫版を昔読んだことはありますが、読む前の不安感が見事的中して、内容がさっぱりわからないという感想を持っていました。

それ以来、なんとなく『武士道』っぽいテイストの本を読んだり、『武士道』そのものを解説している他の本を読んだりして、なんとなく知ったような気になっていました。

さらには『葉隠』という、いわば武士道を体現しているといわれる書籍を手に取りましたが、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という最も有名な文章にまでたどり着くことなく挫折しました。

自分自身ではかなりの読書家だという自負があったにもかかわらず、日本人なら読んでいて当然という『武士道』『葉隠』というまさに精神的支柱と言っても過言ではない二書に対し、通読すらできなかったことは私自身の読書への熱意を減じるものとなりました。

そんな中、かなり苦手意識が強かった『武士道』ですが、ついに「まんがで読破」シリーズで読むことにしました。

この本もまた他のまんがで読破シリーズと同じように、原著を読まねば意味がない、という今となっては意味不明のこだわりのせいで、今まで読むことをしませんでした。

しかし今回、読んでよかったと心から思いました。

まんがという別形態のメディアに、いわゆる翻訳されたであろう武士道ですが、きっと原著もこんな感じに鳥肌が立つような内容なのだろうな、と勝手に想像するわけです。

日本語訳の原著を読んでいるはずなのに、まったく新しい書籍を読んでいるかのような新鮮な印象を受けたのと、まんがという形だから文字を正確に追うこともなく理解ができます。

前回の『破戒』もそうでしたが、出たらすぐにこの本を読めばよかったと思うほどに、すんなりと新渡戸稲造による武士道の考え方が理解できたように思います。

ただ、やはり歴史的な雰囲気というか、欧米列強諸国のキリスト教のような教義がカッチリした厳密な精神的支柱たる宗教がない日本で、その精神を形作る芯となる武士道の思想を伝えようとした凄みは、やや薄まっているのかなと勝手に解釈しました。

まんがにすることで今風の作品に見ることもできるので、やはり当時の日本が置かれた危機的状況に対する焦りというか、そういう行間からきっと滲み出てくるであろう雰囲気は、まんがからはあまり感じられませんでした。

そうは言っても、歴史的に重要な文献でもある本書がまんがになったことで、まんがなら読めるという私のような層にも古き良き日本人の精神的支柱を学ぶ機会が得られることは素晴らしいこと。

このようなまんがで読破シリーズをいままでみくびっていた分、このシリーズによって通読すら挫折していた名作たちにも、再度取り組んでいきたいと思うようになりました。

〈まんが⇄原書〉で理解が深まる?

今回このまんが版を読んで思ったのは『武士道』の全体像がざっくりと掴めたかな、という印象です。

本書では忠臣蔵のエピソードが記載されていますが、これは日本人による日本的な価値観で眺めた時には、主君への「忠」や「義」の話として理解できますが、それを欧米諸国向けにどのように説明しようとしたのかなど、細かいところが気になってきてしまいます。

いったん全体像が把握できれば、多少難解な文章表現が出てきても「ああ、この箇所はきっとこんな感じだろう」と予測して補完できるであろうと思うのです。

そんな感じで、細かいところをじっくり味わうというか、やや厳密に新渡戸稲造が表現した『武士道』の生の表現やニュアンスに近づきたいなあという欲求がじわじわと湧いてくるのを感じました。

とはいえ、今この武士道の考え方の主流ではない細かい部分の解釈を知ったところで私の人生にはおそらくあまり影響がないと思われるので、本当に時間が余ってやることがないとか、本気で武士道の研究をするかでないと読まないだろうな…と思うのでした。

そういうのはやはり専門家が書いた書籍や、また別のテーマで武士道を取り上げている類書を読む時のついでとかに深堀りする感じになりそうです。

シンプルそうに見える思想ですが、深いところまで追求しようとするとドツボにハマりそうな感じがするので、このまんがで読破レベルの理解で止めておくのが私のような ”にわか” には正解なのでしょうね。

 

破戒 島崎藤村 著

破戒 ─まんがで読破─

みんな知っているけど中身は知らない小説

「まんがで読破」シリーズ、実はちょっと小馬鹿にしていましたが、今回『破戒』を「まんがで読破」シリーズで読んだことによって、こんな話だったのかという納得感がとても深く得られました。

まんがは絵がメインでセリフくらいしか文字がないのですが、登場人物の表情やその描き方などの、非言語表現の部分が非常に大きく伝達要素の比率を占めているのだと改めて実感。

これまでまんが作品は多く読んできましたが、それらは原作がそもそもまんがだったために、あえてまんが化することによる右脳的理解を実感できていなかっただけかもしれません。

まんがって漫然と読んでいるうちにどんどん引き込まれていくんですが、それは作品の面白さ、素晴らしさももちろんあるのですが、私が今回実感した右脳的な認識というのが、人間が人物について認識する自然状態に近いから、という感想を得ました。

小説のように文字によって情景を細かく表現し、読者側がその人生経験によって各々異なった情景を思い浮かべるものは、それなりにイメージの材料となる経験が必要です。

ですから物語の世界観があまりにも自分とかけ離れたものになってしまうと、その物語への没入度が浅くなってしまいがちです。

そのせいでこれまで「名作」とされたり、歴史的に意義深い作品について読んでみても、イマイチその素晴らしさが理解できないということが多くありました。

小中学校での読書感想文で名作を読んで感想を書くのが難しい、とはそういうことなのかもしれません。

私も30歳を越えるあたりから、いわゆる名作とされる小説や古典と言われる作品の面白さが少しずつわかってきた、という実感がありました。

そういう人生経験の蓄積も手伝い、そして本書のようなまんが化に際しての、おそらく原作の世界観を十分に表現できているであろう描写から、この作品がとんでもないくらいの衝撃を私に感じさせたのだろうと考察させられます。

 

肝心の内容は…

「まんがで読破」シリーズの良いところは、まんがは右脳的理解で進むため、時間がかからないというところです。

イメージがそのまま絵になっているので、そのままそのとおりに受け取ればOKです。

そのため時間がかからず、そしてあたかも自分が主人公と同じような体験をしているかのような錯覚とともに物語の世界観に没入できます。

本書もそのように没入でき、そして主人公が教員であるということ(私もかつて教員でしたので親近感があった)などの要素(個人差もありますが)によって、非常に強く共感してしまう作品であったということができます。

歴史的な名作ですから、その話の内容を知っている方も大勢おられると思いますが、まだ読まれていない方にも是非読んでみて欲しいので、あえて内容には触れないでおきます。

ですが、このテーマの本を今の時代に読み返すことの意義は、周囲の多数派に飲み込まれて自分の信念や立場、本音などを隠し通して、無難に生きていくことの苦しさや、それを乗り越えてカミングアウトして闘うと決意するためのきっかけや勇気、意義深さなんかを考えさせられます。

こんな個人の薄っぺらな人生観と比較されては、本書のテーマとなった元の人たちには非常に申し訳ないというか畏れ多いのですが、私個人が学び取った要素としてはこんな感じです。

時間の試練を超えた古典の凄み

名著と言われる作品は時間の試練を乗り越えて、それでもなお人々に読み継がれている物語です。

そしてこの本の話は、つい100年ちょっと前、もしかしたら当時生きていた人と同じ時代に私も生きていた、人生が交差したかもしれない世代の話です。

そんなつい最近まで、このような差別が公然となされていたことにショックを受けつつも、こうしたテーマを扱いそれが長く読み継がれてきたということにも、言い知れぬ感動を感じます。

今読んでもなんともいえない熱いものが湧き上がる感じがするのに、この時代、まさにこの本で書かれている当事者の方々が読んだらその思いはどれほどのものになったか。

それは強烈な、社会をも変えうる大きな力となったのだろうと想像できます。

道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学 永井均 著

道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

ニーチェ哲学を”真に”受け止めたという本

ニーチェという気難しいらしい19世紀の哲学者の思想を、日本大学教授の永井均氏が解説している本です。

この方の著書は私が学生時代にニーチェにハマった時に読んだ『これがニーチェだ』が最初の出会いでした。

ニーチェってなんかグズな人のグズな状態な時に、世の中を斜に構えてちょっと視点の転換をすることで生きる力が得られるような思想を書いている、という風に認識していたのですが、なんだか厳密に言うとちょっと違うようだ、というのが本書の主張。

この方の書く本はおそらく厳密な意味での哲学的議論を性格に押し進めようという思いから、哲学的訓練を受けていない私のようなにわか哲学ファンにとっては難解な文書を書くという印象を持ってしまっています。

が、なぜまたこの本を読んだのかと言うと、毎月行われている浦和の古本市でたまたま氏の著作を見つけて、そしてニーチェだったので、古い本ながらも唆られてしまいました。

なんだか最近、遠藤周作の人間臭いイエスやキリスト教のお話を読み続けていたせいか、『アンチクリスト』な成分で精神をニュートラルに戻したいなあと思う欲求も働いたのかもしれません。

遠藤氏の作品自体は、いわゆる伝統的であったり正式な組織だったキリスト教の話というよりは個人的な心の内面でどう受け取るかに焦点を当てたものだから、そこまで息苦しいものではありませんでした。

しかしキリスト教分がちょっと濃すぎて偏った思考になってしまいそう、そしてなんだか奉仕とか福祉とかに意識が向いてしまいすぎるなあという感じがしたので、本書を手に取った次第です。

で、本書はやはり厳密に表現しようと心がけているのか一文が長くて難解で、どの述語がどこにかかっているのかで迷子になりがちな本でした。

そしてちょっと反抗的というか挑発的な、ちょっと上から目線の表現が多いのも気になりましたが、これは著者がまだ40代前半の頃に書いたものだということで変な納得をしました。

ニーチェみたいなじゃじゃ馬哲学者を「これが本当にニーチェだ」って言うくらいの人だから、このくらい生意気な感じに書かなくちゃ、と言う気もしてきます(そう言う私も上から目線ですみませんて感じですね)。

 

ルサンチマンとかニヒリズムとか…

そういうむずかしそうな用語はまあ置いといて、ニーチェは社会的な弱者が価値観の転換を経て弱ければ弱いほど強いという状態を作り出したキリスト教の歴史を指して、なんだか卑しい奴らだなと言う風に言ったのだと解釈しています。

ニーチェのお父さんは牧師さんだったせいか、きっとニーチェは幼少期からミッチリとキリスト教漬けだったに違いないと思うのですが、その反発心でこんな「反キリスト者」みたいな本を書いちゃったのかな?とも思います。

アンチクリストという本を書いてはいますが、その実ニーチェの思想の枠組みだって、価値感の転換を経た弱者が強者に入れ替わるような構造してますよね?と言う風に思うのですね。

この本で私が共感できたのはその部分です。

本書には薄く表面的にだけニーチェを読むと、個人的な人生訓程度しか引き出せないのだ、とか書いてありますが、私はそれで十分なわけです。だって哲学屋ではないのだし。

でも哲学ファンとしてニーチェみたいなエグい思想の持ち主の思想を、しっかり深いところまで理解したいという欲求があるのでこのような本を読んでしまうのです。

そしてこの本を読んで「そうそう、やっぱりすごい先生はそう思うんだ」ってちょっと嬉しくなったのが、上述のキリスト教的強弱の転換のカラクリを、ニーチェ自身も使って「力への意思」とか「超人」の思想へと至っているなあというところ。

ちょっと難解な文章が多くて私の解釈がおかしいところもあるかもしれませんが、ニーチェが拘っている「道徳の系譜」についていえば、その辺りの枠組みが一緒で、強者と弱者が入れ替わり続けているよっていうのが主張の一旦なのかなって思ったりもしました。

専門的に哲学研究やニーチェ研究している人から見たらアホがなんか言ってるよって思うのでしょうけど、私のような生半可な読み手ではこのくらいのうっすーい理解が限界でした。

 

「ニーチェを読んでる」状態がカッコいいだけ

これは今となっては私も反省しなければならないのですが、大学生当時の私はなんだか難しそうな本を読んでいる自分かっこいいと思うところがありまして。

工学部のくせに、工学系の書籍がさっぱり理解不能で数学嫌いだったせいで、哲学という文書での理解(数式のように厳密に解が出てこないであろうもの)に逃避していたのでした。

当時は私はうつ病て通院していたのもあり時間がたくさんあったので、大学の図書館にあったニーチェ全集を全部読んでみたのです。

その中にはまさに薄っぺらな理解として指摘される「死をもたらすもの以外は全て糧」みたいな格言があってそれを元に次第に私が元気になっていったのですが、そういう実利的な面がある一方で、やはり自己肯定感を高める要素もあったのです。

難しくて訳がわからないほどに自分はなんか「すごい思想に触れている」感があり、特にニーチェっていうと正統からちょっと外れた思想のような感じがして、厨二病患者にとってもかなり美味しい人物だったのでした。

そんなこんなで私がニーチェを読んでいて、そのご縁で今回もつい、ニーチェの思想を永井均氏が解説している、という二点から即買いして読んだのです。

そしてやっぱり読後感として感じたのは、「ニーチェの思想は解説者により主張が違う」ということと、永井均氏の本は文章が長くてわかりにくい、というものでした。

この手の本を読んでて思うのが、実は私自身はそこまで哲学とか好きじゃないんじゃないか?ってことです。

この永井氏くらいに厳密に文章を長々と書いて記述しなければならないのであれば、それは私はちょっと嫌なので、そういうことなら哲学もちょっと嫌なんだろう、という訳です。

いつか哲学の専門的訓練を受けたい、つまり大学で学び直したいって思っているけど飛び込めずに別の学部に入ってしまうのも、そういう難しそうで無理かもしれないという恐れなのでしょうね。

それと哲学科が醸し出す(私の勘違い?)排他的な雰囲気でしょうかね。

社会人になってから学び直そうと入った日本大学の哲学科教授が永井氏だというのも、私が二の足を踏んで経済学部で教員免許を取った遠因かもしれません。そうなのか?

 

イエスの生涯 遠藤周作 著


イエスの生涯
日本人視点に仕立て直されたイエス像を描く試み

遠藤周作による信仰の深化と、日本人という立場でのキリスト者として受け入れるイエス像を模索した作品。

『死海のほとり』で触れていた「愛のみにいきた無力な人」としてのイエスを、聖書の物語と照らし合わせ、過去の「イエス像」に関する研究も織り交ぜながら描いていく試みです。

これは日本というキリスト教が生まれた地域とは大きく異なる環境で、私たち日本人の立場としてキリスト教を受け入れようとした時の葛藤を超えるためのきっかけになりそうな本です。

遠藤氏もあとがきでは、キリスト教というブカブカで違和感のある洋風の服を着せられて、最初は戸惑ったけれど簡単に捨てられるものではなかったし、それなら日本人にあうような和服に仕立て直してやろう、という気持ちで考えを深めていったようです。

聖書との対照もところどころに記載があり、深く理解したいとか本当に聖書にそんなことが書いてあるのかを確かめたい場合にはとても便利です。

そして聖書を側に置いて照らし合わせながら読むと、著者が引用した部分の前後の文脈もわかるため、より深く聖書の理解も本書の理解も進みます。

信者ではない人がそこまで聖書の中身を詳しく知ろうとは思わないかもしれませんが、遠藤氏が描き出すイエス、人間としてダメな奴だと人間社会で烙印を押されてしまうリアルなイエスを知ると、なんだか聖書もそこまで遠いものではなくなるような気がします。

 

究極の無力さが神性を宿す

イエスという、当時は別に珍しくもない名前で掃いて棄てるほどいる自称”預言者”の中でも、特に見た目はみすぼらしく、そして奇蹟が起こせず、ただ苦しむ人に寄り添うだけの人物の集団だけがなぜここまで世界的な宗教になり得たのか。

当時のユダヤには多くの預言者や教団が存在したといいます。

しかし他の教団は、弟子たちが師を神格化していません。

イエスの弟子たちだけが、師を神格化して世界中に広めなければいけないと強く、心の底から思い、行動に移しました。

その最初の頃、直弟子がなにかに覚醒して世界に福音を広めようと思った時のイエス像が、本書で描かれているイエスなのでは、と思わずにはいられないほどの「神性」を感じます。

それは究極的に何もできない、現実的にはなんの利益ももたらさない「愛」の実践です。

元々こういう母性的ですべてを許して包み込んでくれる思想があったからこそ、世界中の人々(あらゆる人が大なり小なりの苦しみを抱えたり罪悪感を持っている)が救いを求めたのではないかなあと思うのです。

そしてその愛を証明するために、裏切った弟子をはじめ誰に対しても恨み言を言わず、むしろ神に対して「彼らはまだ愛の表し方がわからないだけなんです」と庇う言動までし、そして誰よりも酷くて苦しい死を望みながら亡くなっていきます。

師を裏切った弟子たちがそのような師の最期の噂を聞いたりする中で、命が尽きるそこまでして愛を貫くなんて人間ではない!と衝撃を受けて、そして詳しは未だに不明な「復活」を経て、弟子たちが覚醒したのでは、と遠藤氏も一つの考えを示しています。

 

弱さを受け入れ、それを貫く強さ

本書を読み進めていると、これでもかというくらいにイエスが何もできなくてかつて称賛して群がった民衆たちが批難や暴力を加えるようになってきます。

彼らはイエスをメシア(救い主)として期待し、病人はその治癒を、民族主義者は独立運動のリーダーとしての役割を期待します。

しかしイエスはそうした人間の世界でのことには手をかさず、あくまで「愛」を実践した世界の理想の話をし続けます。

それは現実世界になにも及ぼすことがないものであり、「愛」というものが理解できない民衆や弟子たちは、次第にイエスから離れていきます。

それでもイエスは病人に寄り添い、娼婦に寄り添い続ける。

自分が考える理想を、どうしたら証明できるのか悩みながら、血のような汗を流しながら葛藤し続けます(こうした表現は聖書からの引用のようなので、また聖書を読んでみようかなという気持ちになります)。

最終的には政治的な意図から、ユダヤの治安を安定かさせるためのダシにされて処刑されてしまうイエスですが、それをも受け入れ、悪態をつかず、愛を証明しようと努めます。

十字架にかけられて絶命する時、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(我が神、我が神、どうして私をお見棄てになられたのか)」という言葉を残したと言われています。

聖書に精通していない私たちが見ると、最後にはイエスといえども神に絶望したのだと思ってしまいがちな箇所です。私もそう思っていました。

しかし聖書の中身をよく知っている人、ここでは原始キリスト教が広めようとした相手なので当時のユダヤの人々ですが、彼らはいつも聖書を読む習慣があったため覚えているのです。

そんな彼らに向けて、聖書の一部を引用すると、その後に続く文言を書かなくても意図が伝わるのだそうです。それで聖書にはこれだけが書かれているといいます。

そしてこの言葉は旧約の詩篇22章からの引用なのですが、この部分は最終的に紙神への絶対的な信頼を表すものへとつながっていき、父なる神へすべてを委ねる、という言葉へつながっていきます。

こういうところが門外漢からすると大きな誤解をしやすいんですね。

この部分の話はキリスト教を信仰している方にとっては当たり前のことかもしれませんが、私のようなにわか聖書読みが知ると、もう感動してしまうような内容なのです。

聖書では、この言葉を言ったイエスを見た、処刑担当の百卒長が「この人こそ神の子だ」と言ったとか言わなかったとかとなっていますが、死ぬ間際に誰にも悪態をつかず、その上こんなこと言って死んだのではそう思うのも当然かな…と思います。

 

聖書は事実ではいが真実である

本書で印象的だったのが、遠藤氏による聖書の事実性への言及です。

聖書考古学という研究分野では、聖書の記述が考古学的に証明できるかを発掘や調査によって明らかにしていくのですが、中には事実とは違うのでは?という内容も書かれています。

聖書は一宗教の経典であって歴史書ではないのでそれは当然、といえるのですが、そこで遠藤氏は、聖書に書かれていることは、当時イエスに感銘を受けた使徒やその弟子たちが、広く人々に伝えたいと願った、という点で真実だと言うのです。

聖書には本当にことは書いてないとか安易に否定する人もいますが、これは歴史書ではなく教典であり、宗教観を表現するための書物です。

そういう聖書の存在理由から考えても、著者のこの考えは実に納得がいくものでした。

私自身、考古学や古代史が好きなので、聖書に書かれていることが考古学的に証明されたら、それはそれで知的に興奮するはずです。

でもそれは考古学という視点の話であって、キリスト教や神の子イエスとしての記述に関しては、聖書に書いてあることこそがキリスト者にとっての真実なのだ、ということです。

聖書を読む時のモヤモヤ(これはいったいどこまでが正確な記述なのだろう?)が、一気に解消されたような、それだけでもこの本を読んだ甲斐があったなあという考え方でした。

 

事前に聖書の流れを知っているとなお楽しめる

このような本を読む人が、聖書読んでないというのがそもそも稀なケースかもしれません。

しかしこの本は「イエスの生涯」というタイトルにもあるとおり、キリスト教創始のきっかけとなった人物に関する考察です。

したがって、その人の影響によって成立したキリスト教の聖書、そしてイエスが当然のように親しんでいたユダヤ教の視点を知るためには、旧約から新約に至る文章を読んでおくことが、よりよい理解につながるものと言えます。

ヨーロッパやアメリカでは基本的な知識として共有されている聖書ですから、ひとつの教養として読んでみるのもありかもしれません。

現在なら、Kindleなどで無料で読めるものもあるようです。

しかし私個人的には、聖書内の書物相互の関係を立体的に理解しながら読むと、物語としても楽しめるものですので、引照付き聖書を読むことをオススメします。

これを持っていれば、本当に信仰のある人からも一目置かれるかも?

聖書はいろいろな訳、そして各国語にも訳されているので、対照しながら言語の勉強にも使えそうですね。

ちなみに私は英語版とラテン語版も持っています。

 

成功している人は、なぜ神社に行くのか?


成功している人は、なぜ神社に行くのか?

神社に行くといいことがあるよっていう本

学術的な研究に関するトレーニングを積んだ方が書くスピリチュアル系の本ということで、主張している内容についてはそれなりの根拠があるのだろう、と期待して読みました。

が、モノがモノだけに客観的にデータで示せと言っても、それは具体化している現象でしか示しようがないわけで、著者自身がいわゆる「感じる」人なので、それを根拠とした主張が大半を占めているという印象。

まあだから信じるかどうはは読者次第…とはなるのですが、それはひとまず脇へ置いて、この本に書かれているいろいろなテクニック的なものを実践するならば、それはそれで自分の精神をクリアにする方策としては有効だと言えるでしょう。

冒頭から「神様が自室を訪れてお告げを…」的な展開(ご本人の主観的体験としてはこれが事実として記憶されているのでしょう)なので、そういう話が苦手な人はちょっと引くかもしれません。

が、そもそもコレ系の本を手に取る人が、その程度で引くとも思えないので問題なしです。

なにはともあれ、昔から神仏の御加護によってことを為すというのは、歴史的ターニングポイントでのありがちな話。

本書でも有名武将や政治家が、その成功には神社への参拝があった、という流れで説明もされていきます。

私が思うに、日本人とされる人たちの生活は、宗教意識がほぼないにもかかわらず初詣や季節のお祭りで盛り上がったり食事の前のあいさつなどといった生活に根ざした、改めて見ると神道という宗教絡みの行為に満ちています。

このことから、成功した先人たちが神社参拝を熱心に行っていた、と言ってもそれ日本人にとってそれが当たり前の日常的な習慣だった、とも思えるのですがどうなんでしょうね。

神社を焼き払った織田信長が裏切られた、という神社を粗末に扱った人の例もありますが、神社を大切にしているのが大半の日本人の中でも、裏切られたり滅ぼされた人は居るはず。

この手の話では、厳密にそういう細かいところをつっつくとキリがないので、まるっと「そういうものなのだ」と思って信じてしまうのがいいのでしょう。

かの天才パスカルも、神さまが存在しようとしまいと、神様が居ると信じて生活したほうが、摂生したり善行を行ったりするので心身ともに健康で長生きしするし周りからも慕われていい人生になるよ、って言ってますし。

人間の浅い知恵で勘繰っても、大いなる流れには逆らえないということで、いろいろなモヤモヤを抱えつつもしっかり読んできました。

 

そういうのが見える人が言うんだから

本書の著者の八木龍平氏は、博士論文執筆中に神さまが自室に訪れて、その使命を賜ったと言います。

人は自分が経験したことがない出来事については、なかなか信じることが難しい生き物です。

私もそのエピソードを聞いただけでは「?」がついて回ります。

本書に書かれている「神社にお参りすることで得られる効果」については、そういうメリット先行で考えてはいけないのでしょうが、たしかに体感として身に覚えがあったりします。

その仕組みは「見える人」「感じる人」のような特殊な能力を持っているか、その感覚が開いている場合でしかわからないのでしょうが、そうでない私でも、風が吹いたり蝶々がずっと飛んでいたりという、”なんだかステキなこと”は起こっています。

そしてそれらのなんだかステキなことがあった後には、自分の主観的世界ではいいことと言える出来事が起こりやすくなるなあ、なんてことも思います。

神社は祈りの場(=意(い)宣(の)り、とも)とされ、自分の意思を宣言する場でもあると本書に書かれています。

これはその通りだなあと強く感じたので思わずメモしたのですが、神社はお願いごとをする場として一般的には考えられており、お賽銭箱の前には煩悩のエネルギーが渦巻いている、と言われます。

しかし神さまサイドからすると、煩悩というか強烈な願望で頭がいっぱいだと神さまが入る隙間がなく、その願望をかなえる手助けができない、といいます(本書では)。

神社は願望を叶えた先にある自分の根底の望みは何か?

を明らかにし、それを自分で宣言する場である、という風に考えます。

神さまに向かって宣言する、しかしシンプルにサラっと宣言するわけです。

そうすると神さまの支援が入る余地があるので後押しが受けられる、という。

そしてその後押しというのが、人と人とを繋ぐこと、といいます。

神さまとされる存在は、実在はしないけど存在はするもので、何かを引き起こすための実体がありません。

そこである願望を持った人に、その人の願望の先にあるものを必要としている別の人に引き合わせるという役割を果たします。

するとお願いした人の願望は叶えられ、ほかの助けが必要だった人は助けられます。

シンプルにいうと神社の役割はこんな感じとのことです。

そしてこれを現在のインターネットのつながりに喩えています。

そう言われると、古代の人々がインターネットのことを知ったら、神さまネットワークだと勘違いしても無理はないくらいの技術ではあります。

このように神社への参拝で願望を成就させることを目指すなら、強烈に欲にまみれたまま願うのではなくて、神社へ行ってお願いするまでに自分の根元的な望みがなんなのか?を自問し続けてシンプルにしておくことが大切なのだと思います。

 

アプローチ方法が違うだけでみんな同じことを言っている

本書は神社という切り口から人間がよりよく生きていくための道を模索する方法が述べられているものだと私は感じました。

神社で神頼みと言っても、そこに至るまでの自分の努力があってこその心願成就です。

そしてその自分の努力+αの部分に、最後のダメ押しの神社参拝があるように思います。

日本の神さまは人間臭いところもあるようなので、やはり人間に対する好き嫌いもあるでしょう。

私たちが好感を持つ人が直向きに努力したり、頻繁に会いにきてくれる人だというように、神さまから贔屓にされる人も同じような人と言えるでしょう。

となると、お願いばかりしてお賽銭も入れない、必要な努力もしない人がいくら神社に行っても、その効果はたかが知れているわけです。

一方でできることは全てやり、あとはもう神さまに祈るしかやることがない、と言う人については、そもそも神社に行かなくても願いは叶うかも知れません。

しかし自分自身の心を一旦リセットして、真っ白な気持ちで成功の扉を開けることで、その後のさらなる大きな成功にもつながりやすくなるでしょうし、なにより自分自身の気持ちとして神さまのバックアップがあると思えることは心強いでしょう。

やはりパスカルが言ったように、神さまを信じて正直に生きることが自分自身の人生にとっては大きなメリットがあるんだということですね。

 

まとめ、感想

こう言う本を読む人は二極化するのではないかと思うのです。

一つは自分には何もできないからやらない、そして神仏に縋って生きる人。

もう一つは努力を精一杯して、最後の一押しの神頼みをする人。

神社でのお願いは無駄である、ということは決してなく、前者であってもその人の心の平穏を得るためには神社が役立っていることを考えると、やはりだれにでもサポートがあると言えるでしょう。

しかしそんな神社のパワーを遺憾無く発揮してもらい、自分の人生に役立てるには、やはり人間の側もエネルギーの投入を行って、神さまからの支援をしっかり受け取れる状態になっておくことが重要と思うのです。

人間は生存に必要なこと以外も考えられるような巨大な脳を持っているが故に、さまざまな苦しみ(将来の不安や過去への後悔)を抱えています。

しかしその代わり、自分の能力を引き出して周囲との協調を生み出すための仕組みもう見出しました。

それが「神さま」などの超常的存在です。

神さまは人間が生み出した集合意識である、と本書でも言及されているように、人々の思いが積み重なって、その場の空気として取り巻いているものが、「神さま」とされているもの。

それは神域の空気や木や岩など、その場に合った依代に宿っているのですが、そうした存在の仕方が、実在はしない(から、依代を代表として敬う)が存在する、という表現になっていると思うのです。

空気を読みすぎる日本人らしい神さまの捉え方だなと思いますが、昔から日本に住む人が神さまをそのように崇めてきた歴史そのものが、現在にも引き継がれている神さまを存在せしめているのだなあと思うのです。

そして神さまたちに助けられていると思うからこそみんな正月には初詣にいくわけで。

将来の私たちの子孫も神さまに助けてもらえるように、今の私たちも神社へ言って、願望成就を願うことが大切なのでしょうね。

そう思うと神社に行って、自分の願いを純化して願うこと自体が、人の役にも立っていることにつながって、気持ちよく参拝できるようになりませんか?

死海のほとり 遠藤周作 著

死海のほとり (新潮文庫)

生々しさの先の神聖さの表現

父性的宗教と言われそのように考えていた私自身も本書通読後に感じたのは、徹底的に「愛」
だけに生きた人間のイエスを描くことで、まるで人間のやることではない次元の愛を示し、
翻ってそこに「神性」とも言えるような清らかさを表現した作品であるということです。

この作品に登場する「私」と学生時代の友人である「戸田」は、信仰を深めようとすれば
そうするほどに信仰に対する疑いが生まれることに気がつき、聖地エルサレムの巡礼の旅に
出ることになった、という背景。

この小説を読む中で感じることは、キリスト教のいわゆる教会的な正式なもの(=作中に登場
する熊谷氏に象徴)に対し、キリスト教として形成される前の、生々しいイエスが何を目指し
何を成した(この作品では「為せなかったのか」のほうがしっくりくる)のかを追求していく
その姿勢です。

私信仰があるわけではないが、自分で望んで聖書を読んだ時には、やはりこの作品で示される
「ただ寄り添う」ことによって、現実世界では何もできない(具体的な利益として具現化し
にくい)「愛」というものを知らせて広めたのがイエスだと思うのです。

作中でイエスが、自分が横切った人生の主は、自分(イエス)のことを忘れない、というよう
なことをいいます。

これは熱病で瀕死の状態のときにイエスが寄り添ってくれたおかげ(?)で生還したアルパヨ
に代表される様に、こちら(ここではイエスに人生を「横切られた人」)は何度もイエスを
棄てても、あの人は絶対にこちらを見棄てることはない、という事実。

裏切り者に対しても、「裏切るが良い、あなたのその裏切る時の悲しみや恐怖も引き受ける」
という徹底的な許しで向かい合う姿勢。

聖書にもそういうようなことは書いてありますが、生々しい描写と合わせて説かれるこの話
は、より深く信仰が無い者にとっても心に響くものがありました。

2000年前のエルサレムには掃いて棄てるほどの自称「預言者」「救世主」がいたといいます。
その中ではかなりの実力者も存在していたはずです。

それでもなぜ今に名を残すのが、作中でも描かれている様な枯れ枝の様な見窄らしい体をした
弟子にさえ見捨てられた、惨めで「何もできない男」なのか

それは、この人(イエス)が何もできないのに人生を横切られた人々の心の中に残って、
奇跡はおろか何も出来ないのに誰よりも何よりも優しい人だった、と記憶されたから。

死に瀕しても恐怖に負けて騒いだり喚いたりせず、徹底的に神に自分を委ね、自分の死を
以て、苦しむ人や悲しむ人の重荷を引き受けようとしたから。

巻末の解説では、「永遠の同伴者」としてのイエスを描いた作品であると書かれています。

同伴者という表現が、まさにぴったりのイエスの描写であり、また実際の人間としての
イエスもまた、本作品のような愛の表出である同伴者としての側面があったのではないか、
そう思える読後感を残しています。

 

感想

母性的な文化の日本的感性によるキリスト教理解でいいのかわかりませんが、私はこの本を
読んでいる最中も、現在と過去を交互に描写される中で、過去のイエスが寄り添う行為に、
とても強いリアリティを感じました。

聖書の内容は、後世の教会関係者が、神性や権威性を付与するための脚色がある(作中の戸田
も言及している)と思いますが、聖書考古学の視点から見て、当時のイエスの状況を読み取る
ようにすると、フィクションの小説とは言っても、この作品に描かれているようなイエスとい
う人物の足跡が浮かび上がる様な不思議な感動を覚えたのが印象的でした。

遠藤周作の描くキリスト教や信仰、イエスという人物は表現の方法やアプローチが秀逸なのか
私自身が聖書を読んだ時に感じた現実離れした違和感の先にある、
「で、結局リアルのイエスはなにしたの?」という疑問に、1つの回答としての説を提示して
くれている様に思い、フィクションとは言え楽しく読むことができました。

ただキレイでスゴイ奇蹟を行える超人ではなく、汚くて見すぼらしく、何もできないイエスが
ただ愛を示し続ける、という行為にこそ私は神性というか聖なるものを見た気がします。

本当にこれだけのこと(ただ寄り添い手を握る)を貫き通した人物がいたとしたら、やはり
世界中に影響を及ぼすだけのインパクトはあるよなあとも思いました。