わからないまま襲われる恐怖【宇宙戦争 H・G・ウェルズ】

SFの基本書みたいな位置付けの『宇宙戦争』

SFといえば宇宙戦争という、なんとなくの認識のまま積ん読となっていた本書。

SF小説は完全に娯楽としての読書という認識だ。

どうしても仕事で必要な知識やすぐに役に立ちそうな本を優先して読んでしまいがちのため、積読期間がかなり長かった。

が、読んだ。

フィクションの小説は主人公や登場人物の代理体験を通じて、自分以外の人生という斬新な視点が得られると思ったからだ。

実際どうだったかというと、そんなことを考えずに小説の世界に没入した。

世間では評価の分かれるところではあるが、元々空想科学的な世界観が好きだったりしたせいもあり純粋に楽しめたなあというのが感想。

”火星人”の一般的イメージの原型

この本は原題が「THE WAR OF THE WORLDS」であり、そのまま訳すと「世界戦争」。

実際、内容も宇宙空間での戦闘などは一切なく、時代背景も19世紀の英国だ。

宇宙に人類が出ていけるわけもない。

ではなぜ宇宙戦争となったのかといえば、地上に襲来してくる的が火星人だから。

かなり昔に書かれたSFという空想の物語だから、ツッコミどころはたくさんある。

が、あえてそれを無視して当時の英国在住の庶民だったとしたらという視点で読み進めると、非常によく楽しめる。

リアルな襲撃からの逃走を追体験する気分が味わえる。

なぜそんな気分になるのかといえば、敵が「火星から来た」ということ以外ほぼわからないことばかりだからだ。

どんな存在がどんな目的を持ってやってきたのか。

こちらから排除しようとすると圧倒的火力で一瞬で殲滅させられる。

絶望しかない。

そんな世界。

ただ襲ってきた火星から来た存在、すなわち火星人の外見も説明されている。

その説明の仕方も謎の襲撃者としての不気味さを一層引き立てている。

その後の火星人像として、クラゲみたいなものを連想するのは、この小説での描写を元にしているそうだ。

そのくらい影響力が強かった。

未だに火星人といえば黄色っぽいクラゲみたいなやつら、と思い浮かべるほど。

そう思うとこの小説が世に与えた衝撃はかなりのものだったのだろう。

終わり方もモヤモヤする

結果的に火星人たちは、地球での何らかの微生物か何かによる病気で全滅するわけだが、その理由もよくわからん。

勝手にやってきて人類が皆殺しにされるかもしれない絶望感を感じさせ、ただ逃げるだけしかできない状態に陥っていく。

それなのにいつの間にか火星人たちが勝手に死んでいく。

結局、地球側の人類は、火星人からの脅威に対して何も対処できずにいたことになる。

でも結果的に助かっているという。

なんともスッキリしない話だなあという印象を持つだろうと思う。

私もなんだか、主人公や関係者が逃げているだけのように感じてしまった。

現在の刺激の多すぎる社会に生きているから、この手のストーリーでは刺激が足りないというか、もっと劇的な展開を期待してしまう。

とはいえ、この小説が未だにSFの代表的な作品だといわれているのは、自分たちに何もなすすべがない絶望感の中をひたすら逃げ続けるという、精神を削り続けていく展開が衝撃的すぎるからなのかもしれない。

私個人としては、この本を読まねばと思い続けて数年、やっと積ん読の山から読了の本棚へ移動できるのでスッキリ感はある。

ストーリー読後のもやもや感はかなり残ってはいるのだが。

宇宙戦争

ハーバート・ジョージ・ウェルズ/中村融 東京創元社 2005年05月
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正直よくわからないが引き込まれる 『風の歌を聞け』村上春樹

今更ながら読んだ、天才作家の原点

先日読んだ『100歳まで読書』で冒頭の一文(”完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。”)が引用され紹介されていたので、興味を持ってしまった。

なぜなら『100歳まで読書』は私の心に深く突き刺さる強大な影響を及ぼす本だったからだ。

これまで村上春樹の小説はなんだか難しく感じられ、よくわからないので避けていたところがある。

高校時代の課題図書で『ノルウェイの森』を読まされたが、その時の理解不能な印象のみがこびりついていたからだ(内容は全く覚えていない)。

さらに私の性格が「流行り物、主流のものは避ける」というへそ曲がりであるため、いわゆるベストセラー作家の作品というものに魅力を感じないことも、これまで自ら手に取らずにいた理由でもある。

だが、今回はそんな忌避感をも乗り越える影響を与える本から紹介されたこともあり、『100歳まで読書』を読み終わったその足で書店に向かい購入した。

こういうとき売れ続けている作家の本はどこでも手に入るから助かる。

普段読んでいるマニアックな書籍との大きな違いだ。

読んでみたが、やっぱりよくわからない

いつになくこの本への期待が高まっていて、自宅に帰るなりすぐに読み始めた。

冒頭の文章は先に読んだ本で紹介されており、入り口のハードルは軽々超えた。

従来ならばこの哲学風な格言に反応して本を閉じるところだ。続けて読み進めていく。

予想通り、だれがどこでしゃべっているのかさっぱりわからない。

一回読み終えて、2周目の再読で「ああこれは鼠か」とわかるくらい。

一回読んだだけでは意味はさっぱり。

でもなんだか不思議な力で引き込まれていくのはなんでなのか。

その不思議な感覚に包まれながら、あちこちに飛ぶ場面にも目が回る思いをしながら、ページを行ったり来たりして読み進め、160ページの本文+あとがきにかえてを読み終わった。

休憩なしで一気に行った。

読了後、疲労感がない。不思議だ。これが売れ続ける小説の力なのか。

で、結局なにがいいたかったのかはわからないまま。

私がアホなのだろうか。

再読を試みる

あまりにも場面や時系列が入れ替わるので、再読してみたらわかるんじゃ?と思って、冒頭から少し読み返してみた。

先述したが、やはり一回全部を把握してから、もう一回読み返すことでわかってくることがあるようだ。

なるほど、そう思えば複雑怪奇に思える場面転換や物語の進行も、スッキリ…とまでは行かないが理解はできそうだ。

このことに気づいたら、俄然この小説が面白く感じられてきた。

恐ろしい小説だ。

これがデビュー作とは。

ビール飲みながら野球観戦していたときに急に「小説家になろう」と思った人物が初めて書いた小説にはとても見えない。

こんなのを読んだら、小説家志望の若者は絶望感を持ってしまうんじゃないかと思うほどだ。

幸い、私はそんな希望は持ち合わせていないので、ただ一人の読者・消費者として、物語を楽しむだけだ。

と、ここまで書いて思ったのが、わざとわけがわからなくなるように書いて、読み終わった後に最初から読ませようとしたとしたら、やっぱり村上さん、スゴイ。

ものぐさで積読の塔が天を貫く状態になっている私が、本の再読なんて滅多にしないのに、「もしかしたらもう一回読むとわかるかも?」と思わせて実際に読ませたのだ。

実際に読ませたのだから、やっぱり自然と人をそのように動かす力があるのだ。

この人ヤバいですなあ…。

時代を超える作品とはこういうことか

私が今この時点まで本作を読んでいなかったことが、自分でも信じられなくなりそうだ。

現にこの作品が1979年に生まれたということが信じられない。

物語を読み進めれば、その時代背景からこのくらいの時期だろうとはわかる。

だがこの小説は、2022年に私が初めて読んだにもかかわらず、古さを感じない。

物語の展開に慣れずに難しいなあとは思ったけれど、時代的な違和感も持たずに読み終えてしまった。

文庫版の1刷が2004年だから、21世紀になってから出たのかと勘違いするほど(それほど興味を持っていなかった)のお馴染み感。

普遍的な何かを描いているからなのか、それとも私の感覚がおかしいのか。

もし前者なのだとしたら、これは世界で語り継がれる古典作品と同じように、時代を超えて人々を啓発あるいは楽しませるだけの内容を持っていることになる。

時間の試練を乗り越えるだけの力を持った作家が書いた小説なのかもしれない。

だが、もし私が本作の発表時にすぐ読んでいたとして、ここに書いたことと同じような印象を持ち評価することができただろうか。

出版から40年以上経ち、作家としてはノーベル賞に最も近いと言われ続けるほどになった村上春樹が書いたデビュー作、という先入観がそう思わせていることも考えられる。

仮にそうだとしても、私が文学のなんたるかを理解できないアホであっても面白いと感じ一気に読み終えてしまうほどなのだから、少なくとも「繰り返し読めば面白い」とは思えたのかなとは思う。

思いたい。

まだ読んでないって人は読書家には少ないとは思うけれど、私のように食わず嫌いで読まないでいる人はぜひ手に取ってみて欲しい。

引き込まれて寝るタイミングを逸してしまうこと間違いなしだ。

 

風の歌を聴け

村上 春樹 講談社 2004年09月
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ジーキル博士とハイド氏 スティーヴンスン 著 村上博基 訳

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

※あまりにも有名な作品ので、ややネタバレ的なことも書いてあります。

有名だけど自分で読まない物語の代表格

本書巻末に記載されている「解説」にも言及があるように、”あまりにも有名すぎて、かえって読まれることの好少ない名作”のひとつとして本書『ジーキル博士とハイド氏』がその一典型とされています。

まさにその通りで「ジキルとハイド」といえば二重人格の代名詞だと思う、それほど人口に膾炙している、もはや慣用句と言えるほどのものです(かつて「ジキル」が多かったようですが著者が言う発音である「ジーキル」が現在では一般的になっています)。

なお、ジーキル博士(Dr. Jekyll)はフランス語の「Je」と英語の「kill」を組み合わせた「われ殺す」の含意を持つとよく言われており、一方のハイド氏(Mr. hyde)は「隠れる男」とすぐ連想できるような名前とされています(本書の解説より)。

ジーキル博士は医学者、医者であり人命を救う立場でありながら、心の中にはハイド氏に象徴されるような欲望や悪意に満ちた部分も持っており、救命者であると同時に殺人者であるというのが、読んだ後になるとなんだか納得するような。

私のような浅い本読みではこんな感じの解説を読むだけでも作品を深く読んだような感じなるから安上がりだなあと思います。解説や翻訳をするだけの人の頭の中は、一般人とは作りがちがうのだなあと改めて認識。

この本の訳者である村上氏も、本作の翻訳を打診されたときには未読であったというほどこの作品は有名なのに読まれなという「名作らしさ」を見せつけてくれています。

それだけ広く人々に知られ、二重人格の人物を表す慣用句としても定着している本作ですが、やはり自分で(訳文とはいえ)その物語を追ってみると、作品が持つなんとも言えぬ不気味さや暗さ、そしてその怪しい雰囲気に引き付けられる感じを体感できます。

これは読まずにいるのはもったいないほどに知的な興奮にも似た興味をそそる力が宿っている、そんな作品だと言うことができるでしょう。

読む前からあまりにも有名だから、あえてここで手に取って読んでみようと思う人が少ないということは、この作品を前にしたときの心境を思えば当然のことと思います。

しかしそこで、名作には自分であたってみると言う姿勢を持って読んでみると、たとえ物語の柱がどうなっているか知っていたとしても、そこに至るまで、それが明らかになるまでのプロセスを味わう楽しみは失われてはおりません。

むしろボンヤリと中途半端に知っているがために、早くそのモヤモヤした半端な理解をはっきりさせたい、といミステリー小説を読むときの心境を持ちつつ、読み進めるごとに深く物語の中に引き込まれていく、そんな作品でもありました。

人間が持つ善と悪、二面性が拗れた末の二重人格

このお話は品行方正で非の打ちどころのない人物であるジーキル博士が、時に凶悪な要素を持つハイド氏になってしまう、ということから「二重人格」がテーマの物語かと思われているところがあります(私がそう思っていました)。

それも間違いではないのですが、結果的に同一人物の中にある善と悪が分離するような薬を生み出し、それを使ってジーキル博士が今まで戦ってきた「悪の面」を切り離してしまおうとしたところが発端になります。

アラフォー世代なら知っている人も多いであろう「ドラゴンボール」に出てくる、ピッコロと神様が分離したような感じ(ピッコロの分離はジーキル博士とハイド氏の分離を真似したのでしょうか)でもあります。

悪を追い出したというよりは、これまで抑圧してきた悪の面(=表の世界で生きている時間が短いもう1人の自分)を分離させる過程で明確になり、秘密の薬剤によりそれと人格が入れ替わってしまうというお話。

骨格も含めて待ったく別人になってしまうところが、ファンタジーな小説らしい世界のことなのではあります。

その変身するシーンやそんな二重人格のよな状態に至るまでの過程をジーキル博士自身が語って明らかになる箇所では、その淡々とした口調に薄気味悪さすら感じます。

物語に入り込んでいる時には、自分の中の善悪に二面性(あるいは建前と本音)の対立に意識を向けざるを得なくなります。

そんな自己の内省をも読みながら促すというところに、この物語が長い時を超えてもいまだに読み継がれ、そして古典作品となった今でも慣用句や代名詞のような扱いを受けるようになったのだなあと感じました。

 

本音を抑圧しすぎないように生きよう

この作品を読んだからと言うわけではないのですが、ただ自分のこれまでの人生において、周囲からの評価を気にしすぎて「優等生」ぶりすぎてはいないか?という自省をするきっかけになりました。

実際にジーキル博士がハイド氏になってしまうような、別人として抑圧している負の欲望を解放することにならないでしょうが、あまりにも自分の本質とかけ離れた人生を生き続けていたら、晩年になって大きな後悔を抱えることになるかもしれません。

この本の主要人物たるジーキル博士自身、本当の自分を抑圧し、周囲や社会が評価する自分像を作り上げ、それを磨き上げることを優先し続けた結果、本当に自分が望んでいる自由な人生を蔑ろにしてきてしまったようにも思えます。

そして長年の間、抑圧してないものと扱ってきた本音の部分が、元々は自由さを求めていただけのものが、時間の経過とともに抑圧に対する憎悪や反発心などへと変わり、凶暴な性質へと変化していったのではないかと想像できました。

このことは自分を抑えて生きてきた人についても当てはまるのではないかと思います。

この物語から無理やり何かの教訓を得ようとしたら、私の場合には本音や本質的に望んでいることを抑圧するのではなくて、社会的にも受け入れられる形で発露していく方法を模索する、という生き方へシフトするきっかけになるんじゃないかと思います。

まあ、とはいえ物語ですから、まずは楽しく読むこと、そしてこの世界観に没入して味わい尽くすことが大切であると言えるでしょう。

地底旅行 ジュール・ヴェルヌ 著

当時の最先端の科学を元にしたSF小説

以前より大変お世話になっております「光文社古典新訳文庫」のうちの1冊。

ジュール・ヴェルヌによるSF小説『地底旅行(原題 : voyage au centre de la terre)』の新訳

としての一冊です。

私個人の嗜好として古典文学を好んで読むことが多いのですが、有名作品ほど古くから日本語訳がなされており、やや古い日本語であったりガチガチの文語体だったりします。

すると私のような”にわか”の古典ファンにとっては、通読するだけでも骨が折れるのですが、光文社古典新訳のシリーズでは、現代風の日本語で訳しなおしてくれているシリーズのためにとても読みやすい訳を出してくれています。

かつてはコスパ最強の岩波文庫の文語調の古い日本語、レベル高いものだと旧仮名遣いの岩波文庫を何度も寝落ちしながらかじりついて読み通したのですが、そんな一度苦労した作品も、本シリーズで再度、現代語訳で読み直せるのでとても助かっています。

と、いう私にとっては非常にありがたいこちらの新訳。

19世紀の最先端科学の知見を取り入れた上でのSF、つまりは妄想科学ですが、その中身が気になって読み始めてしまいました。

そしてかなりの長編小説であったこともあり、読み終わるのに数日かかってしまいました。

未だに謎が多いとされる「地底世界」ですが、ヴェルヌの描く地底には一体何が存在していることになっているのでしょうか?

また、本書を読み通すことで、当時の人々が認識していた地層や生物の進化に関する視点も学べますが、そこから現代の科学水準との乖離も垣間見えてきます。

フィクションである、という前提があるにしても、当時に生きる読者になったような気分で、本当にヴェルヌが描く地底世界が存在するのではないか?という気持ちにさせられる作品でした。

 

「古典」になったSF小説の凄み

本書は現代でも出版されているようなSF小説、空想科学小説というジャンルの1冊として認識して良いものだと思います。

であるならば、きっと当時の出版業界でもSF小説がたくさん書かれていたのではないか?と予想ができるのですが、本書のように出版から100年以上も経過したのに未だに”新訳”が出る古典になっています。

古典とは、時の流れという試練に晒され続け、それでもなお現代にまで読み継がれてきた書物であるので、古ければ古いほど物事の本質をついた内容だと言えます。

また、小説などの創作された物語ならば、多くの人がわざわざ後世へと読み継ぎたくなるような内容だったと感じたものだともいうことができます。

そして本書は後者、わざわざ後世へと伝えていくべき物語である、と判断された結果としての古典化された文学作品として残っていると言えるでしょう。

なぜなら、当時の科学水準が現代に比べて未熟であったとは言え、その卓越した未知の現象である地底世界への深慮遠望は、現代の読者をも「本当はこの小説のとおりなのでは…?」と一瞬でも思わせてしまうような凄みを感じさせるものでした。

一方で、本書の解説や注にも書いてあるのですが、当時使われていなかった言葉や年代測定の制度が曖昧だったことなどから、やや違和感も感じたりします。

しかしそうした些末なことを差し置いても、この小説が時代を超えて読まれているということが理解できるほど、登場人物たちが探索を続けていく「地底世界」へと興味がどんどんと深く引き込まれていくのです。

読後に自分でも調べてしまう=優れたのSF小説?

本書を読み終わった後、この本は19世紀半ばに書かれたフィクションであるということを知っているにも関わらず、自分が知っている地学の知識が疑わしくなってしまうほどのリアリティを感じさせます。

それは、地球の内側である地層や地球の中心へと至る構造について、絶対違うと思いながらも本書で記述されているような事実が発見されていないかどうかを調べてしまうものです。

改めて調べ直してみれば、確かに地球の中心には内核があり、その外側には外核、そしてマントル、地殻という構造があることが確かめられます。

しかしそれを調べて確認する過程で、ついつい地底人や地下世界などの都市伝説的な説に対しても敏感になってしまい、登場人物の1人である「アルネ・サクヌッセンム」が本当にアイスランドから地底へ行ったのか?の記録を探したりしてしまいます。

我ながらバカバカしいなんて思いながらも、こういう優れたSF小説を読んだあとというのは「もしかしたら、このワクワクする世界が実在するかも?」なんてわずかな望みを持ってしまうんですね。

そういうちょっとした「ワクワク感」が得られるからこそ、SF小説にハマってしまうんでしょうね。

SF好きの私にとっても、この古典作品とも言える『地底旅行』は、たっぷりどっっぷりと味わい、楽しめる大作でありました。

それにしても、こういった小説などの内容を解説すると読み進めるときのワクワク感が半減する本についての感想を書くときというのは、ネタバレに繋がりはしないかとヒヤヒヤしてしまいますね。

「こんな風におもしろいんだよ!」って言いたくて仕方がないのですが、こういう長くて味わいがある作品については、ぜひ自分で読み進めていただき、主人公たちとの体験を共有して欲しいと思っています。

かもめのジョナサン【完成版】 リチャード・バック著 五木寛之 創訳


かもめのジョナサン【完成版】(新潮文庫)

読む人によって受け取り方が変わる寓話

手段の同調圧力に屈せずに、自分の生きる意味や自分の好きなことを突き詰めようとすると、よくオススメされるのが本書『かもめのジョナサン』。

かもめのジョナサンは飛ぶことに自分の生きる意義を見出したかのように、日々寝食を忘れて飛行技術の向上に取り組みます。

そしてその姿を見た両親や群れの仲間は、生きるために仕方なく飛ぶという行為こそが普通で自分たちがなぜ飛ぶのかといえば「食うため」だ、といいます。

群れの大多数のかもめが飛ぶことを「生活のために必要に迫られて」飛んでいる中、ジョナサンだけは「飛ぶこと」そのものを高めて磨き上あげ、その先の世界を見ようと孤独に奮闘しています。

そしてある時、ついにかもめの限界を突破し、まるでハヤブサのような小さなクチバシと小さな翼を再現、かもめ界では前人未到の速度域まで達する偉業を成し遂げるのです。

ですがそうした群れの慣習を逸脱し、群全体に不穏な空気をもたらしたかどで、ジョナサンは群れを追放されてしまいます。

…と、ここまで読むとなんだか、私は夢を見て副業を始めてある程度の結果が出て、副業をしたかどで退職に追い込まれる副業サラリーマンの姿を見ました。

そしてきっと、誰もが周囲の同調圧力に屈しながらも、自分だけは違う、自分はいつか自由を手に入れて大きく羽ばたく時が来るんだ…!と信じて日々耐えている中、ジョナサンのように人とは違っても自分の信念を貫きたい、そう思うのではないでしょうか。

私はこのように感じた人間だからこの視点しか今は持てていませんが、立場や感情が違った人や、深くストーリーを読み込んだ人からすると、また違った解釈や受け取り方があるかもしれません。

そんな深みを感じさせるような、現代社会を風刺する寓話のように感じました。

 

作者の真意はどうあれ、自分に役立てる

物語としての構成やその評価は専門家に任せるとして、読書を通じて成長を目指す私は、この本から一体何を学べるのだろうか、と考えました。

短絡的にコレコレのことがこんな学びになりました、というのはあまりにも浅いのですが、まずこのお話を読んでいる時、なんともいえないほど心を揺さぶられました。

その箇所というのは、かつて教えを受けたジョナサンが、自分がレベルアップした後にかつての自分と同じように群れを追放された若いかもめに対して指導するというところ。

教員やってたからって言うのもあるのかもしれませんが、「ジョナサン、成長したなあ」とおじさんは嬉しくなってしまったのです。

なんのことはない、過去からの英知を次の世代に受け継ぐという当たり前に行われていることですが、これがまたジョナサンの弟子がさらに下の世代へとつないでいくのです。

そしてジョナサンがさらに高い次元へ旅立った時、残された直弟子が指導者として振る舞おうと意識した瞬間に、師が言わんとしていたことを悟るのです。

自分が教員時代にそこまでのことが出来たかは分かりませんが、もしも優秀な元教え子たちが、自分なりにいい部分を受け取って自分の糧として役立て、後輩や自分の子どもへの教育に役立ててくれたとしたら…ということを想像してグッときました。やばいですね。

まあまあ、そんな感動物語と言うわけではないのかもしれませんが、単純な私はそんなふうに受け取ったのでした。

 

読むべき時に手に入れて、読むように出来ている

これまたアヤシイ感じの解釈ですが、この本は私が初めて「ソース」という自分のワクワクを掘り下げていくワークショップを受けた時から、幾度となくファシリテーターからオススメされていた本でした。

この前受講した講座でも、またオススメされ、前年に受講したノートにも「かもめのジョナサンを読め」と走り書きがされていました。

でも私は今に至るまで読んでいません。

そして今回はオススメされた瞬間にAmazonで注文して、帰宅してすぐ読んだのです。

そうしたらこの有様です。まさに我が意を得たり!という感じに感動したわけです。

寓話的なお話の構成ですから、読む人によって本当に解釈が変わってくるのだと思います。

そして刺さるポイントも変わってくるのでしょう。

そんなお話を今読んだからこそ、自ら体得した知識を後進へと伝え、そしてさらに次世代へと繋がれていく、というプロセスに言いようのない衝撃のようなものを感じたのです。

それは、やはり私自身がまだ教育分野への情熱が捨てられないからなのかもしれません。

これを勧められた10年前に読んでいたとしても、もしかしたら今のような印象とは違った感想を持ったのかもしれません。そして当時の自分にとってのなにかのきっかけになったのはもしれませんが、今読んだ、というこの事実にご縁を感じるのもまた事実です。

そんなわけで、人から勧められた本というのは不思議な力を持っているのだなと思うのです。

自分ではまず選ばないから自分から読むことはない、そして人から勧められても自分の価値感にそぐわないから手に取らない。結果、いつまでも読むことがない。

そして、何かのきっかけでその本を読むべきタイミングが訪れた時、なぜかわからないけれど必要な知識や視点が得られるように、そのような本を読むような状況(今回はその場でAmazonで注文)に導かれていると思ってしまうのです。

 

この本をオススメされた理由を考えたら

また、【完成版】で付け加えられたという「Part Four」の、神格化されるジョナサンとそれを盲信せず自分で超高速飛行に挑戦してみる若者、という内容もまた私は刺さったのでした。

いつしか指導者は神格化され、始祖が実践した行為は厳しい訓練を伴うためにそれを拒むものが出てくる。

そしてその始祖の存在自体を崇拝し、何を言ったのか、何をなしたのか、ということを「知る」ことだけに注力し、その教えの肝となる実践を疎かにする。

そんなことが長年の継承のうちに伝統となり、なんだかよくわからない、ありえないような奇跡とかがありがたがられる。

でも歴史は繰り返すもので、始祖と同じような視点を持ち、そして実際に試してみようという若者が現れる。

そして再びその教えが実は実践あるのみで自分にも体得できるものだったと理解していく。

そんな流れに月並みでしょうが痺れてしまいました。

ベタなだけにストレートに分かりやすく、なんだか情熱を掻き立てられるんです。

そういうトンガった感じが大好きなんですね。

何度も何度もかもめのジョナサンをオススメされる理由は、私がトンガった感じが好きで、そして同調圧力に反発し続けている性格が周りにバレていたからかもしれません。

子ども向けのお話でしょ?とバカにせず(私はそれで今まで読まなかったのです…)、ぜひ社会の酸いも甘いも知り尽くしたベテランに読んでみて欲しいなと思います。

きっと若かりし頃の、トンガった、情熱的なアツいハートを思い出すのではないでしょうか。

 

閨閥 本所次郎 著

閨閥 マスコミを支配しようとした男

ヤバイくらいにリアリティがスゴい作品(むしろ実話?)

「閨閥」という言葉の意味が不明な人へ(私も初めて見る言葉なのでわざわざ調べました)

閨閥(けいばつ)とは、外戚(妻方の親類)を中心に形成された血縁や婚姻に基づく親族関係、又はそれから成す勢力、共同体、仲間などを指す[1][2]。もともとは中国語で「閨」の意味は夜、寝るための部屋のこと。婚姻は政略結婚[3]も含み、政界、財界、官界さらには王室、貴族に属す一族が自身や血族の影響力の保持および増大を目的に、婚姻関係を用いて構築したネットワークを門閥(もんばつ)と呼ぶこともある[4]。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A8%E9%96%A5

この本はホリエモンが刑務所の中で大量に読んだ本の中で、面白いからオススメしたい一冊に
入っていたので便乗して買った本です。

ホリエモンって人は、本当にいいものを見つける力が飛び抜けていると思います。
彼が面白いと言った本は(私の好みの範囲では)ハズレがありません。

本書も当然、読み始めて一気に作中に引き込まれてしまいました。

そして読み終わって、まるでリアルの世界の出来事を読んだのかの様な、妙に生々しい、
迫ってくる様な凄みも感じました。

なお、ホリエモンがこの本を推すのには、あのニッポン放送買収が絡んでいるようです。
これ読む前に買収したから、正論でゴリゴリ攻めて反感買っちゃったのかな。

そいういうのも含めて読むとなおリアルとのつながりがあって非常に面白いです。

 

仮名を使っているけどほぼフジテレビ内部の権力争い

戦後日本のメディアを立ち上げるところから、テレビ放送という新しいメディアを構築して
いく過程では、産業発展の歴史的な視点の勉強にもなります。

そしてリアリティ溢れる、組織や人間同士の権力争いの様子もありありと記述されており、
フィクションでここまで考えて作り込めるかと言ったら、かなり難しいのではないかという
レベルので仕上がりになっていると感じます。

実際、フジテレビとその関連会社内部の権力争いをモデルに書かれている(というか、ほぼ
そのまま書かれている?)内容なので、読んでいるうちに史実を読んでいるのかと錯覚する
ほどです。

私も幼い頃にはテレビっ子でしたが、たしかにフジテレビの番組は大衆に上手く迎合していて
楽しさや笑いを提供するものが多かった様に思います。
見てる番組は大抵が8チャンネル(地デジでも8チャンネルにして失敗した様子)でした。

その後にはすでに記憶の片隅に追いやられている人も多いでしょうが、ホリエモンによる
フジテレビの親会社にあたるニッポン放送の株式買収がありました。

なぜホリエモンが、わざわざフジテレビなんていう強そうな(まだものを知らない私は、
ただ面白い番組をたくさん作っているというだけで強そうと思っていました)テレビ局を
狙ったんだ?と疑問にも思っていました。

しかし本書をリアルな権力争いの様子を描いたものだとすれば、外部から引き入れた人物が
経営権を持つ、いわば伝統があるこのテレビ局が格好のターゲットだったのかもしれません。

それよりも、テレビ局という巨大な企業の親会社(株をたくさん持っている)が、そこまで
規模が大きくないラジオ局の「ニッポン放送」だったということが決め手でしょうか。

この株くらいならホリエモンでも資金を集めて買収できるし、ニッポン放送(親会社)を自分
の支配下におけば、その子会社のテレビ局も手に入る、ということです。

ホリエモンのこの一件や、本書内で記述されている企業買収などのやりとりを読んでいると、
これはこれで株式の勉強にもなるなあ、なんていう視点もありました。

物語を単純に楽しむために株式の知識が少しはあってもいいでしょうけれど、そもそも株式
なんてまったくわからんという状態で読んでも、だんだん株式というものがどんなものなのか
少しずつわかった様な気にはなれます(人による?)。

 

正直、この手の話は苦手。でも…

こういう人間同士が権謀策術を駆使して騙しあって自分が上に立って、そのあとで自分の地盤
を確立するためにライバルや敵対しそうな人物を消していくお話は、結構苦手ですね。

苦手なんですが、それでもこれどうなっちゃうの?って読ませていくところが、やっぱり
書き手の才能や能力のなせる技なのかな、と思います。

というか本書を読んだ経験から、この手の人間同士のドロドロした系のお話を楽しめる、と
新しい世界が広がった様に感じます。
あくまでも「フィクション」として読んで、ああ面白いなあって思う分には平和的ですし。

それにしても、こんな詳しく、かつ生々しく文章で表現できるなあと。

まあ実話を元にしてるんでしょうが、実話を元にしたフィクションだとしても、内部のかなり
深いところで関わっている人でないとこんな内容は書けないんじゃない?と思います。

作家という職業の人が、ここまで綿密な取材をすることが当たり前だとしたら、それは私の
認識不足です、すみません。

この小説、とっても刺激的で面白く、権力闘争が嫌いな私でも引き込まれるほどですから、
再版とか増刷すれば売れると思うけど…内容がメディアの力持ってる人の話だから、
なかなかメディア関連企業である出版社が出すわけには行かないのかもしれないですね。

ああーコワイわ〜。

魂の駆動体 神林長平 著

魂の駆動体

車好きの魂をまさに”駆動”するお話

SF好きの方にはよく知られている作家さんの小説とのことですが、私自身はSF的な小説を
食わず嫌いで避けているところがありました。

元々、理工系で機械工学を学んでいたせいなのか、ぶっ飛んだ空想の科学技術を見聞きする
と、なんかゾワゾワして不快な気分になったものでした。

そんな私がなぜ読もうと思ったのかというと、これまた読書がお好きな方にオススメされ、
「車好きなアナタならきっと楽しめる」ということで読むことにしたのです。

それで読んでみたのですが、まさに魂を駆動するものでした。

本書の表紙の絵には1人か2人乗りのオープンカーが描かれています。
やっぱり車好きが行き着くところはオープンカーなのか、と読後の余韻に浸ったものです。

 

ちょっと未来のお年寄りのお話

車とSFなのに、出て来る人がお年寄りの男性2人…というところが意外です。

詳しくな読んでいただくとして、忘れかけた夢やすでに諦めていた憧れの存在を、時間が経過
したあとの大人になった自分の知識や経験で復刻する、というようなお話です。

だからこそ、若い人に読んでもらって、夢とか憧れは将来のものではなくて今すぐ叶えようと
してほしいなあとも思うのです。

この本には行動へ掻き立てる何かがあります。

でもビジネス書とか自己啓発書のようなギトギトした、著者の「儲けたい気持ち」が見え見え
の雰囲気ではない、さわやかなものが作品全体を覆っている感じです。

小説がすばらしいのは、私たち読者が未体験のことでも、登場人物、特に主人公が代わりに
体験してくれる「代理体験」の経験ができるところでしょう。

そのためリアルにそのイメージが脳内の繰り広げられ(イメージが苦手な場合には、たくさん
小説やマンガを読みましょう)、実際に自分が行動したかのような経験ができます。

実際、脳にとってはイメージも実体験も区別が付かないとも言われています。
そんな強烈な代理体験を私にもたらしたこの本は、タイトルがまさに的を得ているんです。

車好きなたほぼ確実に、そうでなくても何か行動しなきゃと思っている人にとては、その
行動のきっかけとなりうる、この本自体が「駆動体」になるのです。

 

本書を読んだ後の生活の変化

この本を読む前、「まあSFだしぶっ飛んだ車の話かなんかでしょ」「ちょっとでも面白いって
思たら儲けもん」だわ的な、ほとんど期待せずに読みはじめた一冊でしたが、読み終わったら
なんと私の所有する車が変わりました。

三菱のランサーエボリューション10という車に憧れて乗っていたのですが、その憧れの車より
魂を激しく揺さぶる車があることから、目を背けることができなくなってしまったのです。

本書読了から時間は経っていましたが、様々な葛藤を乗り越えてランサーエボリューションを
売却し、その足で軽くて小さなオープンカー、ダイハツのコペンを購入したのでした。

ランサーエボリューション、いわゆるランエボですが、これは確かに速くてすごい車です。
車好きの少年が憧れるに決まっています。
憧れる人が多いので、この車に乗っていること自体が喜びなわけです。

ところが、車が良すぎでぜんぜん自然の風を感じられないんですね。

窓を開けたりすればよろしいでしょうに、といいますが、それではまだ車に”守られている”。
私はランエボに乗り続けているうちに、モヤモヤとしたなんとも言えない不完全燃焼感を
抱くに至ったのです。

そこへこの本。『魂の駆動隊体』です。
私の錆び付いた魂をまさにオーバーホールして駆動させ始めたのがこの本。

読む前の舐め腐った態度を大いに反省し、この本のおかげで経済的にも車の維持運用が楽に
なった上で、ドライビングプレジャーを強烈に感じることができるようになったのです。

ですが、この本を読んだだけで一気に魂が駆動されたのかというと、そうではありません。

私は元々小型で軽く、省エネルギーで使い勝手がいい車が好きでした。
つまりイギリスのローバー・ミニがドンピシャだったのです。

そして本書内では、登場人物たちが参考にした本が「ミニ・ストーリー」であり、そこでこの
本を存在を知って購入したのです(絶版本のためやや高めでした…)。

現行のミニシリーズはドイツのBMWが作っているので、イギリス車の軽量かつ運動性能がいい
という特徴が見事に失われ、高出力でずんぐりムックリな大きな車体、巨大なミニという、
私に取っては醜い姿となってしまっています(あくまで私の”好み”の問題です)。

そんなミニではなく、昔からあってほとんど最初の設計から変更点がない、完成された形の
イギリスのミニを経て(本書でもイギリス製のミニを参考にして)、作品中では理想の車を、
現実世界では私の理想の車を、手に入れるに至ったわけなのです。

本書を読んでみんながみんな、オープンカーに目覚めるわけではないでしょう。

しかし車好きな人、車に少しでも興味がある人がよんだのなら、私のように「自分の中」の
理想の車を手に入れようという気持ちがムクムクと湧いて来るのかもしれませんよ!

まさに魂を駆動せしめる強力な物語でした。