GRIT やり抜く力 アンジェラ・ダックワース 著


やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

「成功」の再現性を高める重要な要素

本書は2016年に発行された少し前の本ですが、まだ読んでいない方はぜひ読んだ方がいい内容になっています。

それは成功するためには物事をやり抜くことが大切なのは納得できるでしょうが、その「やり抜く力(グリット)」を左右する要素というのが、これまで大切だとされてきた能力などではないかもしれない、というものだからです。

歴史を振り返って見れば、大きく成功して大富豪となった人の学歴などに注目して見ると、必ずしも有名大学やドクターの学位を持っているわけではないことに気づくはずです。

なんとなくこれまで、そう言う人は「天才的」な才能を発揮して自分の専門分野を極めた結果、大成功して富豪となったような印象を受けますが、天才的な人間というのはいわゆる芸術家肌なところもあるので、成功とはちょっと違うものでもあります。

本書は、このような「なんとなくこんな感じなんだけど再現が難しい」成功の秘訣を、「やり抜く力」として定義することで浮き彫りにしていくことを目的としています。

私たちのようないわゆる普通の人でも《なんらかの成功》を達成することができるようになる、成功の再現性を高める秘訣が書いてある本ですから、密かな野望や夢を抱いている人には必読の書とも言える本なのです。

 

教育システムが「それ」を見えなくしている

現在の教育(日本の場合)は、決められた範囲の内容をいかに正確に記憶し、それをテストなどの効果測定時にどれだけ再現できるかで優劣を判定しています。

そしてそれを教える教員たちも同じシステムによって教育され、特に現在の教育システム内で比較的優秀な成績を納めた人たちが担うことになっています。

この教育システムは基本的には明治時代の「富国強兵政策」における国民皆兵とするための制度であり、一律に命令に従える人を作ることに適しています。

軍隊的な規律を教え込む制度であり、それは高度経済成長を経た日本にとっては、一定品質の労働力の提供に転化されることによって繁栄をもたらしました。

このような過去の成功体験やそれと深い関連にある終身雇用的な働き方、そしてそれをよしとする社会的風潮によって、既存の教育システム内で抜きん出ること(=勉強ができて優秀な大学へ進学し、有名大企業へ就職して定年まで勤める)が成功の道と認識されました。

ところが、それは第三者からみたら羨望の的ともなりうるものですが、個々人の思いや望みとはかけ離れているところもあるようです。

このような制度内で努力して上位にいた人たちが、だんだんと退職して第一線を退いて行くときに、定年後に急に仕事がなくなって自分は何をすればいいのかわからない、という状態に陥ることが多いといいます。

そして社会的に影響力を及ぼすことができなくなると、自分の存在意義を見失い、定年退職後に数年でなくなってしまうケースが増えてしまいます。

ここに、本当に現行制度下でがむしゃらに働くことが、万人にとっての幸せな成功になっているのだろうか?という疑問が生まれます。

中にはこの形で生きていく、定年後も再雇用され、その後もボランティアなどで自分の存在意義を見出していくという人ももちろんいるでしょう。

しかしそこに本来の自分の情熱や思い入れがないのであれば、それは会社勤めしていた頃と同じように、自分の内からわき起こるものとはズレている可能性があるのです。

 

やり抜く力の根源は「情熱」「粘り強さ」

ここ数年でインターネットを活用した副業が活性化してきました。

副業に取り組む裾野が広がれば、その中から副業が情熱とマッチした人たちも出てきます。

すると、その人は情熱を持って粘り強く取り組み続けることができ、大きな成功を収めます。

この時、周囲の人は成功者が成功に至るまでのプロセスを知らないので、「天才」「才能があった」などと評価することになるでしょう。

また経歴を見てたまたま有名大学や有名企業出身者であれば、「やっぱりね」と思います。

有名大学や有名企業に入れるだけのポテンシャルはあったのかもしれませんが、それは所詮記憶ゲームが得意だったとか、たまたまそこに情熱を持てたと言い換えることもできるかもしれません。

ただ人は、そうした従来の価値感からしか事実を見ることができないため、物事の本質を見失うことになってしまいます。

ここでは「コツコツと小さな成果を積み上げる」と言うことです。

こういうと誰にでもできそうなことに思えますが、実際にコツコツ積み上げて成功した人が限られているのには、やはりその達成が難しいと言うことになるのでしょう。

コツコツ、の個々の作業を見たらそこまで難易度は高くないのかもしれません。

しかし成果が欲しくて行う作業で、くる日も来る日も成果が上がらない中でもコツコツと続けるだけのメンタルを持てる人は、そこまで多くないはずです。

無駄だと思える作業に没頭できるのは、その作業自体が好きでのめり込むか、または無心になって作業に打ち込むかというケースが多いでしょう。

こうした人たちは、その先の成果や作業過程、または作業することによってもたらされるなんらかの効果に情熱を持ち、粘り強く続けることができるのです。

ここにやる抜く力を見ることができるのです。

 

一流になるには1万時間の練習が必要というけれど

一流になるには1万時間の本気の練習が必要だと言われています。

この事実が周知され、だれでも1万時間の練習を行えば一流になれるんだとわかっていても、なかなか本当に一流になれる人が出てきません。

こうすれば成功する、といういわゆる「成功法則」は世の中にたくさんありますが、実際に成功した人がわずかに限られるのは、「やり抜く力」が発揮できないことに取り組んでいるからかもしれません。

先ほども述べたように、やり抜く力とは「情熱」「粘り強さ」によってもたらされます。

そしてこれらは、自分が興味を引くことや強い魅力を感じる対象について発揮されます。

昔から「好きこそ物の上手なれ」なんて諺があるように、好きでやっている人はそもそも行為自体が好きで楽しいので、情熱を持って絶えずブラッシュアップや工夫を凝らしていくようになります。

結果として趣味が実益を兼ねるところまで行くわけです。

しかしそうならない人が大半なのは、趣味とはお金や名声をもたらすものではなく、あくまで自分1人や仲間内で楽しむものであって、広く社会へ貢献するための行動だという思考が含まれていないからです。

もしも趣味的活動が軌道に乗り、もしかしたらたくさんの人に貢献できるのかもしれない、と情熱を感じるようになったのなら、その趣味がきっかけで大きな成功を手にすチャンスが得られるかもしれませんね。

 

主体的になると情熱と粘り強さが発揮できる

これは私の主観的経験や、教員としての指導経験からの知見なのですが、人は主観として主体的に物事に取り組んでいると実感できている時、とんでもない集中力を発揮します。

直前まで勉強を嫌がっていた生徒が、将来の目標を定めてそれが腑に落ちて、今目の前の課題によって身に付く知識が本当に必要だと納得した瞬間、それこそ寝食を忘れて勉強に取り組む姿を何度も目撃してきました。

これと同様に、私自身は元々工事現場の監督でしたが、ある時人に教えることに楽しみとか喜びを感じ、それまで放置していた教員免許取得に必要な単位を取得しようと動き出したということがあります。

そう言う時、人は「なぜわざわざこんな苦しいことをしているのか」などと考える余地が意識ないからなくなり、「どうすれば効率よく、自分の能力を高められるだろう、目標達成ができるだろう」という思考でいっぱいになります。

これはゾーンに入った状態にも似ているのかもしれませんが、とにかく自分の影響力を及ぼすことができる範囲内に自分のやりたいこと、課題があるという感覚です。

自分の意思でどうにでもなるし、これを達成すれば自分が望む状態が手に入る、そもそもそれを目指して努力していること自体が気持ちいい、とも言い換えられます。

これが「やり抜く力」の発揮状態なのかはわかりませんし、その後教員も辞めてしまったのでグリットなのかどうかは言い切れません。

しかし少なくともそのモードに入った時には、継続的に粘り強く、単位を落としてもテストが不合格でも、課題に対して情熱を持って粘り強く取り組めたなあ、と振り返ることができます。

 

グリットはだれでも発揮できる力

これまでの学歴偏重や偏差値重視の人物評価は、本来の目的である国民皆兵や一定品質の労働力製造、そして組織の歯車たる官僚を生み出すには非常に優秀なシステムでした。

そういう仕事や立場を目指す人にとっては、このシステムの中で優秀な成績を収めることは、最重要課題であり、そこにグリットを発揮するべきでしょう。

しかしそうではない人にとっては、自分が取り組むべき情熱を感じる分野について目を逸らさずに正面から向き合い、そこに少しずつでも情熱的に粘り強く取り組んでいくことが大切と言えます。

情熱を生み出すものやことは、それを現実的な理由で我慢している間はずーっと燻ります。

こじらせると自分の子供に自分の夢を投影し、その子の人生を台無しにするパターンも見られます(私もそのうちのひとりでした)。

だからずっと燻っている情熱の元は、一度正面から向き合うことです。

そして一度、本気で取り組んでみること。できるところからでOKです。

すると、それが本物の情熱だったら楽しくてのめり込んでしまって、どんなに忙しくても時間を絞り出してでも取り組もうとするでしょう。

でも大抵の場合は他人からの影響や見栄によって、それに対するかりそめの憧れが形作られているだけにすぎないと気づきます。

その場合は、一度やってみるとすっかり熱は覚めて、考えもしなくなります。

私は憧れの車であるランサーエボリューションに乗りたい、というのがありました。

離婚した時に、もう守るものもないので買ってしまえ!と買ってみたんです。

しかし楽しいのは最初の2ヶ月くらいで、あとは燃費が悪くてやたらと大きい、私の嗜好とはズレているものだと気づきました。

あとは「ランエボ」に乗っている私、という見栄ですね。これはきもちいいです。

ただ情熱の本線とズレている場合だんだんとその熱は覚めていき、1年立たずに手放してしまいました。

そのかわり自分が求めているものが少しずつ明確になっていき、今では軽自動車と原付というエンジン出力の非常に小さい乗り物を乗り回すことになっています。

ランエボのローンが残っていますが、自分の主観的な幸福度としては以前よりもずっと増し、そして大出力の高級車に対する興味も一切消え去ってしまいました。

今では大きな輸入車などを見かけると、快適すぎてつまらないんだろうなあ、と思うようになっています(が、乗っている人はきっと満足しているはず、価値観の違いですね)。

このように精神衛生上、とてもよい状態に落ち着いてきます。

その上、本当に情熱を生み出すものがより明確に、曇りが取れてはっきりとわかってきますので、毎日が非常に楽しく、かつもっと楽しむにはどうしたらいいのか?と常に考えているようになっています。

これがグリットなのかどうなのか?という話ですが、少なくとも私は幸せの実感度が大いに増してきましたので、あまりそこまで問題視していません。

この本を読み、自分の経験に照らし、それ以降は自分の情熱が生まれる方向へと判断していけばいいのだ、という確信が得られたのでよしとします。

そんなわけで、やりたいことがあるけど現実的な問題でモヤモヤするなあ…と思っている方はぜひご一読下さいね。

読む時間ないよ!という場合、音声で聞き流せるものもあるようです。

車で遠出するときなんかちょうどいいですよ。

本は紙とKindleとあるようです。私はKindle派です。積読がデータで済むので。

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 堀江貴文 著

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 堀江貴文 著

現制度の学校は害悪である

堀江貴文氏の『すべての教育は「洗脳」である』は、私が教員だった頃に読んで強く感銘した
本の中の一冊で、私が思う教育の形が書かれていました。

堀江氏もあとがきで書いていますが、私も「教育」という言葉が嫌いです。

教育というのは、ある決まった雛形とも言える理想の卒業生像があり、その規格から逸脱した
生徒や学生は不適格者として扱われます。

私自身が通信制の高校で教員をやっていたこともあり、現行の学校制度における不適格者と
多く接してきました。

ところが「不適格」と烙印を押された生徒にも関わらず、むしろ生き生きと自らの夢や希望を
語ったり、その通りの道へと突き進む主体性を持った生徒が目立っていました。

そんな現場での業務経験を背景に持つ私にとって、この一冊はまさに後押しされるような、
大いなる力を貰える本となりました。

 

著者について

著者はあの有名なホリエモンこと堀江貴文氏。本書執筆時の状況確認も兼ねて本書の著者紹介

を引用して記載します。

堀江貴文(ほりえたかふみ)

1972年、福岡県生まれ。本音で本質をえぐる発言が人気を集める敏腕実業家。SNS株式会社ファウンダー。91年、東京大学に入学(後に中退)。在学中の96年、有限会社オン・ザ・エッヂ(後のライブドア)設立。2002年、旧ライブドアから営業権を取得。04年、社名を株式会社ライブドアに変更し、代表取締役社長CEOとなる。06年1月、証券取引法違反で逮捕。11年4月、懲役2年6ヶ月の実刑が確定。13年3月に仮釈放。主な著書に『稼ぐが勝ち』(光文社)、『ゼロ』(ダイヤモンド社)、『本音で生きる』(SB新書)、『99%の会社はいらない』(ベスト新書)など多数。

超有名人なので今さらな感じです。

堀江氏の主張としてあらゆる本や発信で共通しているのが、とりあえず動いてみたら?
というように感じています。

我慢してないでやりたいようにやってみなさいよ、という後押しをしようとしていて
行動を起こしやすくするための様々な工夫というか、アプローチの仕方があります。

そんな堀江氏の言葉、特に本書に書かれている言葉は現行の「教育」を国策としての洗脳と
断じ、脱・洗脳を促すためのものです。

大いに教育現場にて使わせていただきました。

そして私自身も、旧態然とした昭和のモーレツ社員としての奉仕を求められる職場を退職。
今は気ままに大好きな読書を一日中、そしてたまに愛車で温泉へ、という生活です。

自分の「好き」を突き詰めて、突き抜けることでそれが仕事のようになる。
この第一歩を具体的に見せてくれる体験をもたらしてくれたのが、この本です。

 

本書の内容について

ざっくりと大まかに本書から受け取った内容を書くと、
「教育という洗脳は国策であり、逸脱を許さず我慢を強いる社会を生み出す原因である」
という、現行の教育制度とそれに連なる労働者の問題定期提起し、
「自分自身が輝く生き方を自分で選べて、多少苦労するけどそうやって生きていける」
ということを言っているように受け取りました。

私の経験上、苦労するというのは旧い思考のクセで、それが足枷になる感じですね。

でも一旦、そうやって生きると腹を括ってしまえば、目の前の楽しいことに没頭するので、
あまり頻繁に不安に思う暇がなくなります。
もちろん、生活上の保証(貯金とか)があるに越したことはありませんが。

ただし「貯金がないから」とかやらないというのは、その理由にはならないとも言います。
やらない理由は、それが学校教育で刷り込まれた「ゼロリスク思考」というやつです。

失敗を異常に恐れるゼロリスク思考、この世にリスクゼロのことはないんですが、学校教育で
根深く潜在意識に刷り込まれています。

むしろリスクを考えないために非常にリスクが大きく、コロナウイルスが蔓延している現在、
普段からどう生きるのか考える習慣がない人がパニックになりつつあります。

人が亡くなっているこの状況ではありますが、こうした社会的な衝撃がないと、人間は習慣を
改めることが非常に難しいとも言えるでしょうね。

 

好きなことを突き詰めるんだけど

好きなことを好きなだけやればいい、というのが堀江氏の主張です。

彼はそもそも行動力があるのでそれでいいんです。何かされば人よりたくさんできるから、
その作業量の膨大さが他を圧倒する。

しかし凡人はどうしたらいい?となります。

本書では「3つのタグ」を組み合わせてレア人材になれと言います。
たとえば私の趣味は「読書」「温泉」「ドライブ」という、フツーのものです。
でもこれを組み合わせて「温泉本ばかり読んでる車オタクの温泉ファン」となると、

一気にライバルというか似たような人が激減します。
そのせいで同じような友達がいないんですけどね・・・。

人はみんな微妙にハマるポイントが異なります。
だから稀に一部でも重なると無性にうれしくなるんです。心の友かと思うくらい。

一つ一つは何の変哲も無い趣味であっても、それが自分流に組み合わさっているのは、
おそらく世界でも自分だけなはずです。

そうした「レア」な部分を外部から見てもわかるように発信して、そういう人物だからこそ
提供できる価値を生み出す、という生き方。

言うは易し、行うは難し。と思いますが、実際好きで没頭することを使って人の役に立つ、
人を喜ばせると言うことが仕事(収入を得る方法)になり得ます。

これからは苦しみの対価としての給料ではなく、楽しさや嬉しさなどの感動のシェアで
価値提供=報酬を受ける時代になっていくはずです。

その世界に一足先に行くためのガイドが、もしかしたらホリエモンの生き方なのかもです。

 

読後感、感想

日本で教員やっている人で熱心な人で、今の教育制度が子どもを病ませていると言う問題意識
を持っていない人なんていないんじゃ無いかと思うくらい、理不尽で不条理です。

私は私立学校で働いてましたが、私立は効率と違ってユニークな教育方針を実行できるのが、
その存在意義でありメリットのはずです。

しかし教育や福祉もそうですが、公共性が高くて補助金やら何だって世界は、どうしても頭の
おかしな連中が経営者だったりします。

オマエが教育を語るなよ、って言う勘違い野郎ですね。
そして大抵の私立学校は超絶ブラック企業。公立学校もヤバさが明らかになってきましたね。

社会や保護者が教育に対して求めるものが、本来は家庭や地域で行われていたものまで含まれ
るようになっています。

そうなって来ると、現行の教員は大学出の世間知らずばかりなので、キャパオーバーになって
画一的な指導しかできなくなる…と言うような問題があるように思います。

元々は現在の教育制度、教室での集団授業などは、軍隊の統制を子どものうちから刷り込む事
が起源になっています。

明治時代の富国強兵政策と絡んだ「学制」と言うやつですね。
そんな古い制度がいまだに動いている事が、もしかしたら根本的な問題なのかもしれません。

どちらにしろ、現行の教育制度ではもう社会の要請には答えられないし、教育を受ける側も
幸せにはなれません。

「今が転機である」とは常に言われている言葉で、実際に絶えず社会は変化し続けています。
しかし変化のスピードは加速しています。

変化のスピードが加速して社会構造が変わりつつある今、教育の形も従来の思考停止を強いる
ものではなく、個々が柔軟に考えられる教育を実現すべきです。
本来の「ゆとり教育」の理念はこういった教育の実現が目標でした。

しかし教育を提供する側が思考停止状態だったために頓挫し、現在では反動により厳格な教育
へと回帰してしまっているように感じます。

人が皆違うように、適切な教育と言うのはおそらく皆異なります。

そんな混沌としつつある中でも、堀江氏の主張する考え方(好きなことを突き詰める)は、
一つの生き方のモデルともなりうると言えるものです。
まずは私がその実践を通じてモデルを示せればいいな、と思って日々の活動を続けます。

 

 

 

学校と社会 ジョン・デューイ 著 宮原誠一 訳

学校と社会

ジョン・デューイ 著 宮原誠一 訳

本書についての概要

本書は、今で言う「アクティブ・ラーニング」に書かれた本であると言えます。
約120年以上も前から、教育現場の第一線で活躍していた人が唱えていた教育体系が、
いまだに色褪せずに存在していると言うことが、この著者の先見性を証明しています。

教育に携わるものとしては、デューイが唱える教育方法について、大いに共感を得るものと
いう感想を抱きます。

Amazonの商品紹介で、本書について以下のように書かれています。

学校とは暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場ではなく、子供たちが自発的な社会生活を営む「小社会」でなければならない。このような観点からデューイ(1859‐1952)は、伝統的な学校教育に大胆な批判を加えた。自ら創始したシカゴ大学付属小学校での体験から生まれた本書が、戦後わが国の教育改革に及ぼした影響ははかり知れない。

-amazonより引用-

著者がシカゴ大学で創設した『実験教室』の検証講演の速記記録が本書の原型ですが、
その内容は、日本においても戦後の教育改革に多大な影響を及ぼしています。

農業国から急激な経済発展によって先進的工業国となったアメリカにおいて、
プラグマティズム(実践主義)を代表する思想家である著者が、学校教育についても

暗記と試験に明け暮れる受動的な学習の場ではなく
子供たちが自発的な社会を営む『小社会』でなければならない

と言う主張をしています。

社会が自主的な思考を身につけた人々により運営されていく中で、
学校教育を経ることによりその社会性を身につけられるようになれば、
自ずと社会が健全に保たれるであろう、と言うことは、教育に関わっていると
とても強く感じるところでもあります。

著者について

ジョン・デューイ(John Dewey、1859年10月20日 – 1952年6月1日)は、アメリカ合衆国の哲学者。チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家である。また米国では機能主義心理学[1]に貢献したことでも知られている。20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者(ポピュリスト)だった。

-Wikipediaより引用-

プラグマティズム(実用主義)の代表的な哲学者でもあった著者が、大きな変革期にあった
アメリカ社会における教育を考えた時に、教育課程を修了した時点である程度の社会性を
身につけておく必要がある、と言うことを予見して提言した教育理論。

昔から、理想的な教育について考えたらこうなりますよって言うのがわかっていたんですね。

それでもなお【暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場】と言う、デューイが否定した
教育体系が継続されている教育現場。教える側と教わる側の両方を経験しても、理想的な
教育体系だなんてとても思えませんね。

本書はこんな人にオススメ

120年以上前に書かれた教育理論ではありますが、これは教育に関わる人すべてに
読んで欲しいと思えます。そういった意味では、子どもがいる親も含めてですね。

この本で主張されている内容が公教育で実践されつつあるとはいっても、
未だ制度上はそうはなっていません。

従って、社会の変革が進む現在においては、家庭からもデューイの唱える
「自発的な社会生活が営めるよう」に、導いていく必要があると考えます。

書評まとめ

現在の教育理論にも通ずる名著である「学校と教育」。

私自身が教員免許の更新講習を受講中に、本書に触れる機会がありました。
更新講習で触れると言うことは、やはり今の学校教育にも取り入れるべき理論である、
と言う理解がなされている証拠でしょう。

戦後のGHQによる教育改革において本書の理論が参考にされたと言う割には、
現在の教育制度は「暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場」になり下がっています。

現場としては、こうせざるを得ないと言う、苦しい言い訳がないわけではないです。

しかし、理想とする状態がわかっていながら何もせずに従来の形に従うと言うのは、
教育に従事する者としての責務の放棄とも捉えられます。

そういった意味で、私自身も生徒が自発的に社会生活を営めるように、
日々の指導の中で少しずつ実践していこうと思うのです。

 

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 諏訪哲二著

なぜ勉強させるのか?教育再生を根本から考える

諏訪哲二 著

 

勉強するのに理由が要るのか?

私がまず感じたのはこれです。
勉強はなんかつまらない、無理やりやらされるイメージが強いですが、
本来、新しい知識を得るということは、とても大きな喜びをもたらします。

著者は「プロ教師の会」の代表という肩書きです。
なんか【すごい先生】っぽい感じを出したい雰囲気を感じて、私はイケ好かない感じを
持ってしまったのでした。じゃあ読むなよって話ですけど。

現場(指導困難な生徒が集まる通信制高校しか知りませんが)においては、
小難しい理屈の前に生徒個人の人格を尊重しないことに始まらないんです。

 

「プロ教師の会」代表の著者が、教職生活四十年間で培った究極の勉強論

という触れ込みですが、正直なところ「いかほどのもんじゃい!」って
気持ちで読み進めていきました。

 

勉強が嫌いで、教員から無理やり勉強させられている生徒にしてみれば、
なんでこんな苦しい思いまでして勉強しなきゃならんの?って
そりゃ疑問に思うに決まってます。

 

この著書では、「管理教育」の重要さが説かれており、
集団生活を送りながら規定の課程を収めることによって、
一旦社会の枠組みに嵌め込む事が教育の目的であると説きます。

 

教員の現場での実務経験や、その過程で学んだことや指導を受けた先輩方など、
その人に影響を与える要素は、無限に近いほど考えられます。

その中でこの著者は、管理教育を行うことが教育としての正しい姿である、という
信念を持つに至ったわけですから、無下に否定はできません。

しかし、私が教育現場で培った経験、生徒の自主性を引き出す方法とはおそらく
対極にある方法論となります。

そのせいか、斜に構えて読んでしまったきらいがあります。

 

結局、この本で「勉強させる理由」が提示されているか、というと
「わからない」
ということになります。身も蓋もない。

 

すでに教育課程を修了した大人たちにとって、勉強とは「して当たり前」のもの。
だから、「いいからやれ!」となってしまう。

勉強しなきゃならない理由がわかる、少なくとも自分の中で納得感がある理由が
持てる様に導くことも、教育に携わるものの責務なのでしょうね。

 

ちなみにこの本では、この問いに対する答えの候補を挙げています。

曰く、

野生のヒトから社会的な人間になるための規範を教え込むこと。
そのために窮屈な枠に嵌める過程、それが勉強である

私はもともと、現制度下の教育について、
枠に嵌めようとする、児童生徒の可能性を潰しかねない教育である、と
そんな風に否定的にすら捉えていました。

しかし、この本では、あえて一旦枠に嵌めこむことによって、
社会の中で生きていくための共通ルールを学ぶのだといいます。
(それが今の時代にそぐわない、って主張もあるんですよね)

武道でも守破離、という考え方があって、
教えを破るためには、その破る教えを体得しないといけません。
そういう観点では、人格形成のための教育という役割があるとも言えます。

 

とは言え…
自分の意思を表明せずに周りに合わせる生き方をする人が多く、非常に息苦しさを感じます。

「管理教育」、つまり現在の学校教育は、
もともと軍隊を作るための制度である、という見方があります。

軍隊は規律が守られねば崩壊しますし、すぐに敵に負けてしまいます。
個性を無くし、上官の命令に絶対服従するからこそ、その集団の力を活用できます。

 

ただ、これからの時代は個人個人が情報発信ができる時代になり、
必ずしも集団に属する必要性がかなり小さくなってきています。

自分の頭で考えて、それを発信していくことが求められています。
(学校での教育と社会に放り出された時のギャップが大きすぎで、私も苦労しました。)

 

インターネットというものが生活に密着してくるに従い、全世界を相手に生活を送ることが、
否が応でも受け入れざるを得ません。

いまだに「学制」由来の教育システムを無理やり押し通そうとすれば、
今の時代を生きる若者たちは、強く反発するでしょう。それが色々な形になって表出します。

 

何が一番いいのか、それは誰にもわかりませんが、
少なくとも異なる教育へのアプローチが対立いていることで、よりよくしていこうという
大きな流れは加速してくんじゃないかと思います。

それが、この本が持つ存在意義でもあるのでしょう。