西洋哲学史 今道友信 著


西洋哲学史 (講談社学術文庫)

「西洋哲学史」の決定版とも言える一冊

西洋哲学を学ぶ上で重要なのが、まず思想が作り上げられる歴史を学ぶことです。

哲学史を知っても哲学をしたことにはならない、なんて言われたりもします。

しかしまずは哲学とはどんなものなのか、どういうテーマについて考えられて、どのような仮説を経て、どうやって1つの思想として形成されてきたのか、それを知ることが自ら哲学することへの基礎力へとつながっていくと言えます。

そんなわけで西洋哲学史を学ぶ意義というのは非常に大きいのです。

そしてその重要度に比例するように「西洋哲学史」というタイトルの入門書は有名な哲学者の先生方のものも含めて、たくさん出版されています。

そのどれもが素晴らしい内容の本ですが、本そのものの読みやすさや読み手の習熟度などによっては、どの本を選ぶのかがとても大切になります。

高名な哲学者や先生が書いた本だから間違い無いだろう…と思いたい気持ちもあるのですが、すごい人が書いた本というのは、「教えることに対してすごい」人でも無い限りはとても難解な本になってしまいます。

従いまして、入門書という位置付けである西洋哲学史の本であっても、どんな著者のどんなスタンスで書かれた本なのか?を考慮して読む本を選ぶことが重要となってきます。

で、これらの「読みやすさ」「初学者も理解しやすい」「知識の網羅度」という点から本書は、とてもオススメとも言える一冊なのです。

この本が読みやすいという印象を受ける理由としては、著者が講義で話した内容を文字起こしして、形を文章に整えたものという理由があげられます。

話言葉は自然に頭に入ってきやすいですし、書き言葉よりも難しいことを丁寧に説明してくれる(説明の言葉が多い)傾向が強いように感じます。

一度通読するだけではさすがに完全に理解することは難しい(特に初学者の場合)ですが、話し言葉で書かれていることや説明が丁寧であることからも、繰り返して読み進めれば類書よりはかなり理解しやすい「西洋哲学史」の本です。

ソクラテス以前の哲学から始まる哲学史

西洋哲学史はソクラテスから始まる、という認識が一般的ですが、今回きちんと「西洋哲学史」の本を通読したことで、なんとなくぼんやりしていた「ソクラテス以前の哲学」についても整理することができました。

高校の倫理や哲学の授業でもソクラテス以前に世界を理解しようとした人々について触れますが、正直なところあまり存在感がありませんでした。

ところが本書ではソクラテスが現れるために必要なステップとして、タレスによる「すべての根源は”水”である」などの自然を理解しようとする思考の挑戦も紹介されています。

大人になってから改めて哲学史を学ぶことの意義は、なんとなく知っているけど複雑で苦手意識がある分野についても、テストや受験などのプレッシャーとは関係なく自分の知的好奇心にのみ依拠して学び直せるところだなとも思えるモノでした。

ソクラテスが「哲学の祖」と言われる理由も、この本を前から読んでいくと納得できます。

それは哲学が自然を理解しようとする観察と思考の試みから、人間とはなんなのか、幸せに生きるためにはどうするのがいいのかを考える形へと転換されたことが大きいと言えます。

いまでは哲学と言えば「いかに生きるべきか」を追求する学問であるという認識が広まっていますが、そもそも日常生活を営む上でそんな思考は全く必要ではありません。

日々の暮らしや生きていくことで精一杯だった時代から、思考にリソースを割くことができる時代へと変化していったことも、こうした哲学そのものの中身の変化から窺い知ることができるようになります。

 

プラトン以降の哲学はそれに注釈を加えているだけ

プラトン以降の哲学の発展を説明するときに、プラトン以降の哲学はプラトンがいったことに対して注釈を加えているだけだ、という風に言われることがあります。

それくらいプラトンが説いた内容はカバーする範囲が広く、また深い洞察がなされていたということでもあります。

そんなプラトンからのちの世代へと歴史を辿っていくと、なんとなくどこかで知っているような、聞いたことがあるような内容の細かい解釈を厳密に求めていっているようにも聞こえます。

本書のような西洋哲学の通史を読み通してみることでわかるのが、そういった哲学の歴史、思考の積み重ねが体感的にわかってくる感覚です。

とは言ってみたものの、そんな感覚が私だけの独自のものだったらなんか申し訳ない。

そうした体感的に得られるものも私は感服したところではありますが、個別の人物について認識を改めさせられたと感じたのが、エピクロス派と言われる快楽主義についてです。

なんだかこの一派の考え方、現在の日本(私自身もこの考えに近い)で広まりつつある思考に近いというか、その本質をついているかも…という印象を得たのです。

中世は暗黒時代なのか?

堺屋太一氏による『知価革命』で触れられていた、「現在は物質文明優勢の社会であり、それは中世を挟んで1つ前の物質文明であった古代との共通点がある」という視点を思い出しました。

だから現代人的視点で歴史を見てみると、中世は暗黒で古代のほうがより発展しているように感じるのでしょうね。

本書で記述されている中世の哲学的視点の変遷を追っていくと、まったく暗黒な感じではなくむしろ神について考えるために人間についての理解も深めようとしている、知的活動としてはかなり旺盛な印象を受けたりもするのです。

中世が暗黒時代で、ルネッサンスによって文化が復興したなんて言われていますが、これこそ現在の価値感(物質優勢)によるものの見方だなあ、とも感じられるのでした。

哲学史読んでいるだけなのに、他のことに関しても触発されるこの本、なんだか凄まじい存在感を放っています。

近現代になると専門分化されていく

近現代の哲学はもはや「なんだかわからないけど、なにやら難しそうなことを延々と考えている学問」という、かなり偏った認識を持っています。

そしてその認識は、本書を読むことによって多少は整理されていく感覚は得られるのですが、西洋哲学史全体として見た時の近現代の哲学はとても細かい部分の正確性を高めていくようにも受け取れました。

先述したような、プラトン以降の哲学はすべてそれに注釈を加えたもの、という認識をより確かなものにするように、プラトンが描いた大きな枠組みの中の細かい部分を、より正確に、より厳密に理解していく試みだという風に感じるのです。

そんな風に西洋哲学の全体像をなんとなく掴んだ後に現在の最先端(と、言っても本書が書かれてから時間がかなり経っていますが)の考え方に触れると、なぜ今その問題があるのか、そしてどのようなアプローチをしているのかの根拠から理解できるようになる気がします。

ただなんとなく難しそうで自分に直接関係なさそうなことだという認識から、古代の哲学から順を追っていくことで自分も歴史とともに成長できている、そんな不思議な読書体験になっていたのでした。

こんな体験ができるが故に、この本は数ある哲学入門書、西洋哲学史の中でも、多くの人がこぞっておすすめする一冊なのだなと理解しました。

あくまでも私なりの理解ですが。

なので、なにかのご縁でここに辿り着き、そして最後まで読んでしまったアナタもぜひ本書を手にとって読んでみてください。

哲学史から入る哲学は、自分自身の思考を鍛えるための基礎体力を身につけてくれること間違いなしです。

水と原生林のはざまで シュヴァイツェル 著 野村實 訳

水と原生林のはざまで (岩波文庫 青 812-3)

密林の聖者自ら記した支援の記録

”教職とオルガンを捨て、医師としてアフリカの仏領ガボンに渡り、…”という表紙の紹介文に惹かれて、ついつい手に取ってしまった本書。

シュヴァイツァー博士のお話は、小学校くらいの国語の教科書に乗っていたような気がしますが、この本は「シュヴァイツェル」と表記されていたため、先入観なく購入、読み始めることになりました。

読み進めていくうち、なんだかどこかで聞いたことある話だな…と思い始め、シュヴァイツェルってなんか英語っぽく読むとシュヴァイツァーって最後伸ばすのでは…と思い至り、同一人物だったと思い出しました。

だからなんだって話ですが、この話を他人への奉仕と感謝にとんでもない喜びを感じる私が、小学生の頃に読んだにもかかわらず医者の道を目指さなかったのは、「国語の教科書」というやや退屈な反強制的な読書体験によるものだったせいかもしれません。

改めて本書を自分で購入し読み始めてみると、彼の為したことというのは本当に心を打ち、そして当時の社会情勢を考えればまさに破格の勇気を以て行った行為だろうと想像に難くないのです。

昔の岩波文庫(青)なので文字が小さく、そして行間も狭いため、現在の甘やかし書籍になれた私の目には非常に辛い読書となりました。

しかしながらその内容については、淡々と事実を述べており飾るところやおそらく誇張もないような印象ですので、すんなりとおかしな解釈も必要とせずに読み進めることができます。

今、この本を読んで思うのが、彼が始めて原生林に病院を立てたのが37歳の頃だと言うこと。

元々、神学の教員として大学で教え、オルガン奏者としても成功していた著者なのに、30歳にして医学の道を志し、そしてアフリカへ渡り医療を提供するという事実に、私は自分自身がいかに甘ったれた人生に甘んじているのかと猛省をせざるを得なくなります。

 

後の世の評価を知っているかのような事実だけの記述

本書に書かれている最初のアフリカ滞在によって行われた医療行為は、その地域に取ってはまさに奇跡のような出来事だと言えるでしょう。

後にノーベル平和賞を受賞するほどなので、その業績を記録した本書は、今に至るまでに誇張されたり売り上げ増を見込んで盛ってくることも考えられます。

少なくとも現在の商業主義の社会では、当然のこととして分冊化したり業績を盛ったり、さらにはグッズ販売とかも始めそうですが、この本では全くそう言う気配がありません。

シュヴァイツェル本人がそのような活動を嫌ったということもあるのでしょうが、私が感じたのは、後の世に彼のことを差別主義者だとか非難する人が出てくることを予見していたのではないかと思うような、淡々とした書きっぷりなのです。

ご本人の性格的なものの現れが偶然そのような表現となったのでしょうけれど、後の植民地政策の手先であるとか差別主義者だという非難に対し、このような表現で記録を出版していると言うところに大物感が滲み出ているように感じました。

本当に素晴らしい人格を持っている人というのは、そもそも自分の能力や業績を見せびらかす必要がないので、このような無駄がなく必要な事実だけを記述するということができるのでしょうね。

そして、その事実をありのままに記述するというシンプルな方法だからこそ、この人が為し得た原生林での医療行為というものが、強烈に浮き上がって私たちに衝撃に似た感動をもたらすことになっていると言えるでしょう。

 

人はみんなこんなことしたいって思っている

私はこの本を読んだのが37歳というシュヴァイツェルが初めて病院を建てた年齢と同じということもあり、強烈な自分の人生へを省みる衝動に駆られました。

個人的な話ではありますが、30歳で医師を目指して留学したという友人もいることから、自分はいったい人生で何をなしうるのだろうか?と深く考えるきっかけになっています。

人はそれぞれその人生でなすべきことが決まっている、生まれる前に決めてから生まれてくるという説もあるようですが、やはりこのような偉大な人物の業績や、それに似たことを始め用としている友人が身近にいることによって、受け取る刺激は強烈です。

一度は小学生のころに知った人物ですが、このタイミングで再び自ら自腹で入手した本として読み直す経験をするということは、もしかしたら何かのきっかけになるのかもしれません。

もしシュヴァイツェルの名前を知っているが、詳しく何をした人なのかは知らない、もしくは忘れたという方は、図書館にもあるでしょうし古本でも売ってるはずなので、読み返してみるのをオススメします。

自分の人生、このままでいいのか?という疑問に対して、その疑問はこれから動き出すための心の準備だったのだと思える日が必ず訪れるはずです。

人は皆、できることなら他の困っている人を助けたい、力になりたいって思っているはず、と私は信じています。

でもそれができないのは、余計なお世話として受け取られて攻撃されたりするリスクがあるからだと思っています。

そうは言っても、差し伸べられた親切な行為は、それがたとえ偽善だと罵られようとも、親切な行為を実際に行っているのだから、その意図が偽善であろうとなかろうと、助けられた方は確実に楽になるはずです。

そう思うことにして、偽善と思われても結構!大きなお世話だったらお断りください!という気持ちで道のゴミ拾いから始めているのが私です。

そういう小さなことから少しずつ、「いいこと耐性(いいことをするのが怖い気持ちに慣れる)」を強化して、いずれはシュヴァイツェルのような大きな貢献につなげていけるようにしたいですね。

 

空飛ぶ機械に賭けた男たち アレン・アンドルーズ著

空飛ぶ機械に賭けた男たち―写真で見る航空の歴史

空を飛ぶための挑戦の記録

私のような流体フェチにとって、この手の航空史的な読み物は大変な大好物なのですが、やや古い本であるせいか人がたくさん死んでるよってことが生々しく書いてあります。

近頃の文章では、そういう生々しいものは検閲的なところで引っかかって検索除外にされてしまうせいか、あまり見かけなくなりました。

本書は1979年10月に初版第一刷が発行されており、著者近影もパイプを咥えていたりと時代を感じさせる一冊となっています。

この本はたまたま浦和の古本市で見かけ、立ち読みすると同時に購入を決めたほどの本です。

掲載されている写真や飛行機械の図面などは、本文を読み飛ばしてもそれらをじっくり眺めているだけでその技術的な進歩が追っていけるという逸品。

まずは全部の写真や図をじっくり眺めて、それから初めてみるような図や写真の部分は念入りに本文を読み込んでいくという読み方をして行きましたが、それでもざっくりと、どれだけの人が空を飛ぶことに挑戦して散って行ったのかまで把握することができます。

人が空気より重い物体を飛ばすというのは、それこそ重力という自然の摂理に逆らうことに他ならないことであり、大きな危険を伴っていたのだと改めて実感します。

こうした先人たちの情熱と貴重な犠牲、そして技術的蓄積の末に、現在のような航空機が当たり前に存在し、世界中を旅することが容易にできる時代になったと言うわけです。

本書を読みながら、ついこうした偉大なる先人たちの挑戦に思いを馳せてしまう一冊です。

 

流体力学の学徒には特にオススメ

本書は航空機の歴史的発展の過程を綴った読み物として大変な良書です。

そしてその技術的な発展と共に、数式こそ出てきませんが揚力と抗力を分けて考えるアイデアが生まれてきたり、動力以外は航空機としての理論がほぼ完成されたのがわかった時などは、なんだか鳥肌が立つような気持ちになります。

流体力学なんていうマニアックな領域を、今の情報社会真っ只中でも専攻するという変わった人にとっては、こういった伝統的な技術の発展過程を追いかけることも、ひとつの息抜きになるのではと思います。

そして航空史を振り返ると言うことは、それはそのまま流体力学の発展の歴史とも被ってきているものですから、自分の専門分野の知見を深めることになるのです。

『航空力学』などというタイトルの教科書的なものを読むのもいいですが、そういう本は教科書的に、簡単な内容から進んでいくため技術的な発展という人間の営みの気配が希薄になってしまいます。

一方で時間の経過と共に次第に発展していくさまを詳細に記述していく内容では、まさに人間が試行錯誤し、時に危険を顧みずに新技術や新理論の証明に命を賭ける様子を窺い知ることができます。

技術発展とは貴重な犠牲の上に成り立つものだったのです。

そういう技術屋の、いわば「暑苦しくて汗臭そうな」部分の熱さ、情熱を、是非こうした本からも感じ取っていただければいいなあと思うので超オススメしておきます。

 

今の”当たり前”が作られた歴史を知る意義

現代社会は、人類史上これまでにないほど恵まれて豊かな時代だと言われています。

環境問題や各地の紛争はあれど、事実を見ると全体の幸福度は確実に増えています(『FACT FULNESS』より)。

そんな世界に住んでいると、いつしかこの最高に恵まれた時代、恵まれた環境が、当たり前のものとなり、それを維持することがおざなりになる恐れがあります。

また、今の状態が標準となると、そこから少しの落ち込みでショックを受けたりします。

そうなる前に、こう言う本で予め今の便利さは当たり前ではないんだよって言うことを認識して、先人たちのまさに命を賭けた挑戦や技術の発展を心の片隅に置いておくこと。

そうすることで、今ある日常にも感動ポイントを見つけることができるようになるし、今当たり前に存在する最新技術の恩恵に対しても畏敬の念を持つことができるようになります。

ではそれの何が大切なのかというと、まず自分が使っている文明の利器に対して、正面から向き合おうと言う気になります。

これは完全な理解には至らないかもしれませんが、その仕組みや利用方法などに思いを馳せ、その発展に寄与できるということです。

これは情報化社会が発展するにつれて、特に顕著になってきました。

また、先人たちの努力に敬意を払うことで、それを使わせてもらっている私たち自身もさらなる発展に寄与できるようになるし、そのような心持ちを持てるようになると言うことです。

さらには一つのモノに対する思いを深めていくことで、その裏側にある多くの人々のつながりを認識することができ、自分の精神安定をもたらす他、他人に対する気持ちも寛容であたたかなものになっていくのです。

ただの古い技術書でしょ、とあなどることなかれ、こうした古い本には、世界の人々と深いところで、心と心をつなげるためのトレーニングにもなったりするのです。

こういう話はスピリチュアル系のことが好きな人たちがしがちなものですが、物づくりに携わる人たちは常に多くの人との協力関係が必須となるため、意外とこう言うことにも気持ちが無ていたりします。

もしこの本や他の古典的技術関係の本を読む機会が会ったら、少しだけ技術発展に命がけで貢献してきた偉大なる先人たち、名もなき技術者たちへと思いを馳せてみて下さい。

森と文明 ジョン・パーリン 著 安田喜憲・鶴見精二 訳

森と文明 A FOREST JOURNY

ジョン・パーリン 著 安田喜憲・鶴見精二 訳

 

森の存在が文明を発生・発展させた

現在の価値観では、深い森のあるところは未開の地というイメージがあります。
それは未だに人の手が入っていない、自然のままの状態の土地という意味。

そういった価値観が根付く上で「森と文明」との関わりを考えることが重要な鍵となります。

本書は、森が文明発展に必須の要素であり、森の存在に左右された人類の歴史を明らかにし、
私たちの文明がいかに森に依存してきた文明なのかを明らかにしていきます。
本書を読むと、歴史というのは決して人間中心の物語だけではないんだと理解できます。

地球の資源を、自然に回復できないほどの負荷を与えて使い続ける人間の、そもそもの生活
を見直す契機にもなりうる本でしょう。

しかし分厚いので、一般的にはこういう本は読書好きな人向けなのでしょうね。

 

木材がすべての根元=木の文明

現代に生きる私たちの生活は、いわゆる石油文明と言われるように燃料はもちろん、日用品に
至るまでが石油化学工業によって作り出されるもので溢れています。

今でこそ自然に優しいものや環境に配慮する、という考え方が普及してきましたが、それまで
は地下から湧き出す石油を湯水のごとくに使い倒していました。

そんな現在からは想像が難しいのですが、かつて人類の文明は「木」なくしては成立し得ない
ものであったということができます。

ここで一度歴史を振り返ってみて欲しいのですが、石油の利用が一般的になる前(と言っても
その時代に生きていた人はもういないかも…)には、燃料と言えば薪が代表的でした。

住宅などの建造物、鋤や鍬と言った農耕器具、桶、タライ、車輪、レール、水車…
ありとあらゆるものが木でできていました。

中には青銅や鉄、といった金属を利用することもありましたが、これらを加工する際の
熱源としては、木炭が用いられています。
「木」がなければ何も始まらない、そんな文明だということを、本書は絶えず見せつけます。

 

木材と肥沃な土地を求める歴史

そんな木材にベッタリと依存する文明だから、人類の歴史は絶えず「森林」をめぐる争いを
繰り返すことになります。

これまで人物がなした出来事の連続としての歴史を学んできた私に取っては、「森林」を
奪い合うことがきっかけに文明間の衝突が起こっている事実は、新たな歴史の視点を得た
ような気持ちになりました。

木材依存の文明は、ついこの間まで当たり前のように存在していたことを思うと、ここ100年
の変化の大きさというのは、画期的な出来事だったのだなあと感じます。

 

木材依存脱却のその先

木材依存を脱した(未だ依存部分はありますが)現在、石油文明から情報社会に移り、
もはや物質文明が古臭い感じになってきています。

本書は1994年に出版されている本ですから、まだ情報化というには早すぎる、でも情報化
の波は近づきつつある時代です。

そんな節目のタイミングで木材依存の文明の正体を明らかにした本書は、歴史的な意義が
かなり大きな存在になりうるのではないでしょうか。

ただ、この本の視点が米英中心にどうしてもなりがちなのは時代の影響もあるでしょうが、
これでは原題である「FOREST JOURNY(森の旅)」としては未完に思います。
訳者も言及しているように、この本には征服・搾取される側の視点が欠落しています。

細かい描写がなされているアメリカ開拓時の記述では、確かにネイティブアメリカンの
存在は示唆されていますが、彼らが被った「森の喪失」については一切考察がありません。

アメリカに関しては、米英両国にとっての無尽蔵の資源供給元としか認識されていない
ように感じました。

 

とはいえです。
本書のようなひとつの資源に依存することで、自分たちの生活が崩壊しうる危険性を孕んで
いるんだということを示唆している本はとても貴重です。

現在、物質面ではほぼ化石燃料に依存していると行ってもいい時代です。

一部、持続可能社会の構築に向けて、電気自動車や自然エネルギーによる発電も、研究は
進められています。

しかし未だエネルギー効率の点から石油を始めとした化石燃料の優位性は変わりません。
そして石油資源の争奪戦としての国際社会の駆け引きも健在です。

木材から石炭・石油に世界で最も早くシフトした英国のように、既存の戦略物資に依存せず
に済むようになればかなり優位に立てます。

例えば私の済む日本では、ほとんど化石燃料が採れないためにかなり脆弱な経済構造となり、
一方で産油国は非常に豊かな国になっています。

このようにひとつ乃至は少数の限られた資源に依存することは、パワーバランスを偏らせ、
そして紛争の火種になっていきます。

本書は、一世代前の戦略物資である「木材」をテーマに展開していますが、これを現在に
当てはめて考えてみれば、石油をめぐる世界の争いが浮かび上がってきます。

この先、脱石油などとも叫ばれていますが、どこかひとつに依存せずに済むような、そして
持続可能なエネルギー源の開発が実現できれば、世界の紛争のほとんどはその原因を解決
できるのではないかと思うのです。

まとめ

20世紀に書かれた本、というともうかなり昔の本のように感じますが、まだほんの20数年前
のことでもあります。
にもかかわらず、この本のもつ雰囲気の古典的な渋さ。

米英視点に偏っている内容ではありますが、「森林」「木材」を中心テーマとして据えて
人類史を記述したこととは、歴史の的を得ていてハッとさせられました。

 

私の知る限りでは、歴史記述の上で人物描写を中心としないものは本書が初めての本でした。

こうした視点からの歴史をもっと深掘りすることで、人類が地球上における持続可能な社会の
構築にも寄与していくのでは、というふうに思います。

でも社会学者とか実際に社会を動かす実務家の人たちは、こういう分厚い歴史書を手に取る
時間もなかなか取れないのでしょう。

それにしてもこの本は、歴史を通じた社会の構築に向けて新しい視点をもたらす良書である、
と言い切ることができる読み応えのある一冊でした。

蘇我氏−古代豪族の興亡 倉本一宏 著

最強豪族の栄光と没落

蘇我氏と言えば日本史の中でかなり有名な豪族の一族ですが、これまで蘇我氏そのものに
関する一般向けの書籍って見かけなかったように思います。

日本の古代史は結構謎だらけで厨二心をくすぐる分野でもありますが、この蘇我氏については
なんか革命で倒された悪いヤツ的な印象が付き纏っていました。

乙巳の変(大化改新に繋がるクーデター)で滅ぼされた蝦夷と入鹿の親子のあとに、大化改新
という古代日本が独立国として国際社会に打って出ていくという一大イベントが起こっている
というのもあるのかもしれません。

かつて物部氏と仏教を国内に受け入れるか否かで争った際には、蘇我氏の主張が通り仏教が
日本全体の宗教のような形にもなっています。

それほどまでに権力を持っていた蘇我氏ですが、現在の視点から見るとやはり悪者っぽさが
より強調されて歴史に記録されているように感じます。

古事記、日本書紀の記紀がほぼ唯一の正式な記録とも言える時代において悪者的な書かれ方を
するということは記録を残した当時の政権からは目の敵にされていた、ということでしょう。

一方で乙巳の変で倒されてしまうということは、それだけ国内政治で強大な権力を誇っていた
ことの証でもあり、超重要な一族でもあったということができます。

資料が乏しく正確なことがわからない古代だからこそのロマンと、時の権力者が国内の支配を
盤石にするために悪者を作り出す必要があったという政治性。

こうした異なった視点を考慮した上で歴史を読み解いていく時、本書「蘇我氏」のような、
意図的に歪曲させられているような一族、人物を深掘りすることは、非常にワクワクする
作業にもなってきます。

 

蘇我氏は滅びず、ずっと貴族でいた

蘇我氏の中でも超有名な蝦夷・入鹿の父子は645年の乙巳の変で討たれてしまいました。

しかしそれは本家の主人と後継が殺されたというだけで、蘇我氏一族そのものは滅亡せずに、
以後も国家権力の中枢に位置しつづけていくことになります。

かなり長い間、有力貴族として名前を変えたりはしながら存続していくのです。
とは言っても歴史上でも目立つのは、稲目を始祖とした馬子、蝦夷、入鹿の四代です。

ここまで名前を残すほどに強大になる以前、いかに頭角を現し、大臣として国政改革を
推し進めたのかについて、本書ではかなり詳しく説明されています。

この本の紹介文(一部抜粋)でも、

大化改新後、氏上(一族の首長)となった倉麻呂(馬子の子なので蝦夷とは別系統)系は壬申の乱へと続く激変の時代をどう生き延びたのか。六世紀初頭の成立から天皇家を凌駕する権勢を誇った時代、さらに平安末期までを描き、旧来の蘇我氏イメージを一新する。
※()内は追記。

のように書かれていて、蘇我馬子→蝦夷→入鹿の蘇我宗家系は乙巳の変で滅び、その後傍系で
馬子の子から別れた分家筋が宗家を名乗るようになります。

その後、蘇我氏系の血筋からも天皇が生まれたりするので、蝦夷や入鹿の時代が蘇我氏の
ピーク、といいきることもできないのかもしれません。

そして時代が降るにつれてなんやかんやあって名前が石川、宗丘、宗岡などと変わっていき、
今でも見かける宗岡(むねおか)さんなんて姓になっていきます。

最終的には壬申の乱とかなんやかんやあって、負けてしまって失脚…なんてことにはなって
いくのですが、一般的に広く認識されている時代よりもかなりあとまで「蘇我氏」として
存続している、という新事実に新鮮な驚きを感じるわけです。

 

学校教育は”入口”に過ぎないってこういう意味

いわゆる歴史の授業で習う蘇我氏のお話って、乙巳の変で滅びました的なことで終わって、
その後歴史の授業では「そが」さんって出てきませんよね。

私たちはいつのまには「蘇我氏は乙巳の変で滅亡」したと思い込んでしまいます。

ところがこのような「蘇我氏」そのものにスポットを当てた本が出版され、それを買って
読むという、だれもが手にすることができる知識として普及してもらうと、蘇我氏が乙巳の変
の後もしっかり残って、時代に合わせた変化を受け入れて行っていると知ることができます。

思い込みって怖いなあと思いますね。
もしかしたら私たちが常識として思っていることも、そうでもないかもしれないですね。

そういう思い込みや先入観が壊される快感があるからこそ、こういうマニアックな分野の
読書ってやめられないんですよね。

学校の勉強なんて生きていくのに必要ないって、勉強したくないマセガキ(昔の私のこと)は
屁理屈を捏ねたりしますが、役に立たないのは当たり前なんですね。入口だから。

学校の勉強を通じて得られるのは、この世界にはこのような知識体系があって、ここ(学校)
ではその概略だけをお伝えしますね、深めて実用性を伴うには自主的な学習が必要ですよ、
ということなのだと思います。

この「蘇我氏」のエピソードを読んでよくわかりました。

でも、先生方もそういうふうに「あくまで学校の勉強は導入に過ぎない」的なことをよく
説明して欲しかったものです。

私も教員という仕事を経験し、自分でも読書をし続けてやっとこのような認識に至ったわけで
この認識が世の中の児童・生徒に共有されれば、もっと深遠なる知的興奮を惹起する知の源泉が
存在するとワクワクできるんじゃなかろうか、そんなふうに思います。

蘇我氏と全然関係ないこと書いてら。
では。

イギリス王家12の物語 名画で読み解く  中野京子 著

イギリス王家12の物語 名画で読み解く  中野京子 著

視覚(絵)から理解する歴史上の物語

絵画をメインテーマとして、その背景にある物語を解説して絵画そのものを深く味わう、
歴史ファンからすると斬新な歴史の楽しみ方を教えてくれる本。

芸術、特に絵画に関心が深い方からしても、その絵画の味わい方としても歴史上の出来事を
絵が描かれた背景と合わせて解説されており、さらに踏み込んだ鑑賞ができるのでは?

本来なら写真がない時代の記録手段としても機能していたが絵画が、歴史上の出来事と無関係
な訳がないのですが、現在の学問の専門分化による弊害で、なかなか美術分野と歴史分野が、
相互に関連するものだと認識しにくくなっていました。

そんな私にとっても絵と歴史上の出来事を絡めて説明してくれる本書は、新しい世界の味わい
方を教えてくれる、斬新な一冊となりました。

シリーズ物が出ているようなので、それらの本も自分の歴史認識の答えあわせ的な意味合いで
挑戦したいと思うようになりました。

 

イギリス王家にまつわる12枚の絵画

本書には序章も含めて13枚の扉絵と、各章のエピソードを解説する際により理解を助ける絵が
+αで掲載されています。

扉絵でその章を象徴する絵を見せて、先入観がない状態で鑑賞できるのが素晴らしいです。

その後、著者による絵自体の解説というか、細々とした細工や時代を風刺するメッセージ、
絵が描かれた表向きの理由と画家が込めたメッセージを読み解いていきます。

芸術の鑑賞と学校教育

日本の美術教育では、そういった絵の背景にある事情を知らないよりはいいけれど、自分の
感じるままに鑑賞することを良しとしている風潮があります。

もちろんそうした絵画の楽しみ方も一つの方法ですし、堅苦しくなく、力を抜いて美しいもの
を味わう豊かさも私は大切にしたいですし、そのようにしています。

しかしもう一歩踏み込んで、その絵自体の知識を入れ込み、さらには関連する歴史上の事件や
関連する人物、その絵が描かれるに至った事情などを知った上で、さらに絵自体に込められて
いるメッセージ性を読み取るという鑑賞方法は、かなりディープな絵画鑑賞の世界へと誘う、
かなり刺激的な体験となっていきます。

こんな鑑賞方法なら、絵画を主観的に批評するわけではないので好みもあまり関係しません。

事実(歴史上の出来事)やその背景にある様々な説や解釈を、確定事項ではない「説」や
「解釈」として学校教育で教えることができたら、もっと多くの人が文化に対する意識が深く
なっていくのではないのかな、と思うのでした。

深く複雑で味わい深い絵画の鑑賞ではありますが、それに対して単純な面白さ、愉しさがそこ
には厳然と存在しているのだということを広く伝えたいです。

本書に掲載されている扉絵としての作品

詳しい解説は本文を読んでいただくとして、この本に載っている13枚の扉絵のタイトルを引用
しておきます。
表紙の『レディ・ジェーン・グレイの処刑』はややわかりやすいですが、王家にまつわる物語は
血なまぐさいものが多いなあという印象です。
しかし絵自体はあまりそれを感じさせず、背景を読み解いて初めて衝撃が走ります。

薔薇戦争後からエリザベス一世まで(第1部)

序章『ロンドン塔の王子たち』ジョン・エバット・ミレイ(1878年)
第1部 テューダー家
第1章 ハンス・ホルバイン『大使たち』
第2章 アントニス・モル『メアリ一世像』
第3章 アイザック・オリヴァー『エリザベス一世の虹の肖像画』

日本でいう所のイギリスという国の王は、初めからイギリス土着の人間ではないという事が
ヨーロッパらしい王家、という印象を受けます。
第一部では薔薇戦争後に主導権を取ったテューダー家にまつわる王たちの絵。
一見するとただの人物画です。
しかしひとたびその歴史的背景を知ってしまうと、なぜそこに描かれている人物がそういう
表情なのか、その服装なのか、その場面なのかが次第に浮き上がってきます。

スコットランドから来た王様(第2部)

第2部 ステュアート家
第4章 ジョン・ギルバート『ジェイムズ王の前のガイ・フォークス』
第5章 ポール・ドラローシュ『チャールズ一世の遺体を見るクロムウェル』
第6章 ジョン・マイケル・ライト『チャールズ二世』

第2部はジェイムズ一世から始まるステュアート家の物語。
家名は変わっても、テューダー家の開祖、ヘンリー七世とも血の繋がりがある一門である所が
強かというか、柔軟性がある血統です。

後年の第一次世界大戦が「いとこたちの戦争」と呼ばれるように、ヨーロッパ諸国はその王室
同士がみんな姻戚関係で結ばれている、という血統のプールみたいになってるんですね。

この本でも説明していますが、本当に遠い親戚でみんな繋がっていてややこしいのなんの。

ドイツ人のイギリス王から現在へ

第3部 ハノーヴァー家
第7章 ウィリアム・ホガース『南海泡沫事件』
第8章 ウィリアム・ビーチー『ジョージ三世』
第9章 ウィリアム・ターナー『奴隷船』
第10章 フランツ・ヴィンターハルター『ヴィクトリアの家族』
第11章 フランツ・ヴィンターハルター『エドワード王子』
第12章 ジョン・ラヴェリ『バッキンガム宮殿のロイヤルファミリー』

第3部ではハノーヴァー家です。
ここでは「ハノーヴァー家」となっていますが、この血統は現在の英王室まで続いているもの
で、途中「サクス・コバーク・ゴーダ」となり、その後国内の世論に配慮して「ウィンザー」の
家名に変わっていってます。

しかし血統はハノーヴァー家から続いているので、この家名のままになっています。
というか、最初のテューダー家から厳密に言えば血統がわかっている上で繋がっているのが、
イギリス王家であり、この本を読んで初めてその流れが整理できたという面もあります。

他のヨーロッパの王家のように家名にこだわって断絶することがなく、柔軟に名前を変えたり
女性が王になったりと、血統のセーフティネットに加えて柔軟な運用がなされています。

著者も言及していますが、歴代の王家の人たちが不仲であり、しかし柔軟にしぶとく生き残っ
てきたイギリスで現在でも王室が残り、そのほかの家名を厳密に守ろうとした王家がなくなり
共和制に移行いているというのは、何か不思議な感じがします。

 

読後感、感想

本書が絵を題材とするものだけに、写真が残るようになった時代のニコライ二世とジョージ五
世が双子のように似ているとか、二十世紀に近づくにつれヨーロッパ中が親戚になってしまい
敵を見つけることができなくなっていく、そして身内で奪い合うしかなくなっていくという、
歴史的な流れも、絵というビジュアルを通して追っていくと直にわかることもあるのだな、と
全く新しい歴史・芸術の味わい方を体験できた一冊でした。

系図を丁寧に追ってこことここが親戚なのか、ということは…なんてやらずに、似ている別の
国の王を並べて見たら、超似ている、という事実を見るだけで、ああこの人たちは親戚なんだ
とわかってしまう。

文字での詳細な記述では、情報としては正確に伝わるかもしれませんが、その伝達できる情報
密度は非常に低い、効率の悪いものなのかもしれません。

デジタル記録媒体が無く印刷も手間がかかる時代に、絵画といういわば右脳的な情報処理を
記録の方法として採用していた(意図してなのかは不明ですが)ことは、こうして見ると、
確かに最も理にかなった方法だったのかもしれないと思うのです。

写真や通信技術が未発達だったからこそ、人間の深い部分に共鳴する「芸術作品」としての
記録の残滓が、今の私たちの心に響いてくるのも不思議な感覚です。

六国史−日本書紀に始まる古代の「正史」 遠藤慶太 著

六国史−日本書紀に始まる古代の「正史」 遠藤慶太 著

日本書紀から始まる6つの歴史書の総称

本書は『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』までの、天皇の命令でまとめられた歴史書(総称して六国史と呼ぶ)についての研究を紹介する本です。

古代日本の形成や国家運営について知るための重要な手がかりとなる書物である六国史。

これまでは日本書紀などの個別の書物に関しての一般向け書籍や時代背景を丸ごと扱った、
ざっくりとした本が多かったのですが、本書は六国史というやや専門的な分野について詳しく
書かれています。

日本の古代史はまだはっきりと明確に整理されきっていない時代ですので、こうした分野の
新刊が出るとワクワクしますね。

著者について

遠藤慶太(えんどう・けいた)
1974(昭和49)年兵庫県生まれ。2004年大阪私立大学文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。皇學館大学史料編纂所助手、同助教授を経て、13年より皇學館大学研究開発推進センター准教授。専攻・日本古代史。
著書『平安勅撰史書研究』(皇學館大学出版部、2006年)、『日本書紀の形成と諸資料』(塙書房、2015年)

-本書奥付より引用-

これまでこうした本を書かれているのは、高齢の先生方が多いという印象でしたが、本書の
著者はとてもお若いのが印象的です。
そのためなのか、本書のターゲットとする「六国史」に関する研究も初めて拝見しました。

日本古代史の根本資料とされる六国史に含まれる資料ですが、まとめて1つの研究とした視点
はさすがです。
帯にもあるように、まさに「日本古代史はここから始まる」。

 

本書の内容について

概要(本書カバーの帯より)

天地の始まりから平安中期までの「史実」
奈良時代から平安時代にかけて編纂された歴史書「六国史」。720年に完成した日本書紀から、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録までを指す。天地の始まりから平安中期の887年8月まで、国家の動向を連続して記録した「正史」であり、古代史としての根本資料である。本書は、各書を解説しつつ、その真偽や魅力を紹介。また、その後の紛失、改竄、読み継がれ方など、中世から現代に至る歴史をも描く。

-本書帯より引用-

当たり前ですが本書の帯の紹介文がとてもよかったので引用です。

天地の始まり、つまり神話の時代から記述が始まっているのが日本の歴史書です。
世界中の支配者が自らの支配を正当化するために、神などの人間以上の存在がルーツであると
アピールするものと同じですね。

戦前にはこうした神話とされる「神代」の時代まで、歴史として教えていたというから、
今の感覚では驚きです。

そうはいっても、日本の国に住まう人間としては、自分たちの祖先がそのように自分たちの
存在を認識してきたんだ、ということは学んでもいいのかなあとは思います。

神話=フィクションと決めつけてしまうよりは、そういうものを生み出した精神性や文化的な
背景をも含んで後代へ継承することが、自らに対する認識を育てて、他者への理解も進む…と
理想論のようなものは感じます。

そういった視点からも、本書のようなガチの研究を元にした書籍が一般向けに発行される事が
とても大きな意義を含むものであると思っています。

六国史の各書が時代毎にまとめられている

本書では序章+全4章での構成です(六国史なのに6章構成ではない)。

まず序章で「六国史」とはなんなのか、その全体像を説明しています。
六国史とは古代日本の国家の歴史であり、編年史による歴史事件の記述がなされています。

また、日本の歴史書の特徴としての天皇の年代記という性格もありますが、官制による編纂で
これによって官人の世界が垣間見えたりもします。

 ◾️第1章 日本最初の歴史書『日本書紀』

1章の見出しは「全30巻の構成と記述−神代から41代持統天皇まで」/「伝承と記録のあいだ」/「素材−公文書から外国文献まで」です。

ここでは日本で最初に書かれた正史『日本書紀』について集中的に述べられています。

日本書紀は八世紀に成立した歴史書の典型として、以後の歴史書編纂にも影響を与えますが、
伝承や歌謡といったそのままでは歴史的事実とは言えないようなことも記載されています。

これは正史編纂のお手本とした中国の物と異なる点で、神代の設定、地域や氏族の伝承をも
取り込んだことも同様の特徴となっています。

 ◾️第2章 天皇の歴史へ執着−『続日本紀』『日本後紀』

本書第2章での見出しは、「奈良時代への入り口−『続日本紀』」/「英主、桓武天皇の苦−
特異な成立」/「太上天皇への史臣評−『日本後紀』」。

この章では、歴史への執着、歴史に対峙した帝王としての桓武天皇の姿勢が色濃く現れている
という一章です。
その意味で「続日本紀」「日本後紀」がひとまとめになっています。

この時代になると、現物と記述が対照できるようになるので、日本書紀のように神話なのか
史実なのかが曖昧な記述とは異なってくるようです。

正倉院宝物との符合、発掘されてくる木簡や公文書などからも、
これらの書物の記載内容についての検証が可能になります。

 ◾️第3章 成熟する平安の宮廷 『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』

「秘薬を飲む天皇の世 『続日本後紀』」/「摂関政治への傾斜 『日本文徳天皇実録』」/「国史の到達点 『日本三代実録』

本章で扱う『続日本後紀』は初の天皇一代の国史として編纂された歴史書となります。

そのため細かいエピソードの記述がされ、天皇の医薬への系統や得体の知れない薬を飲むこと
なども書かれています。

一方で『日本文徳天皇実録』は全10巻という最も少ない分量の史書となります。司馬遷を目標
として編纂され、あの有名な菅原道真が序文を書いたという書になります。

平安期の日常的な政務の記述があり、文徳期の画期として政務の転換が見られるといいます。
天皇が内裏に入らなかったというのも文徳天皇の特徴といえます。

この『日本文徳天皇実録』までで、天皇の命令による国家が編纂する歴史書は以後作られなく
なります。

 ◾️第4章 国史を継ぐもの−中世、近世、近代のなかで

最後の4章では、国史編纂がなされなくなった後の歴史叙述のついて、私的な記録や日記が
後代では活用されてきていると説明されています。

同時代人の記した日記は、その記述内容のリアルさからその資料を集めて照合することで、
国史と同様にその時代背景を把握することができるといいます。

その後、出版が商業的になされるようになった江戸時代になると、こうした文書は商業的に
出版されるようになり、本書のメインテーマである六国史もこの時に初めて出版されたと
いいます。

日本文徳天皇実録以来、国家が歴史書を編纂しなくなってから、こうした歴史書をまとめる
作業はもっぱら民間で行われてきました。

一部、徳川家康が写本制作を命じたり、徳川光圀が大日本史編纂を行ってきましたが、資料と
してまとめ上げ、後代へと継承する作業は、塙保己一に始まる民間主導の動きによるものが
現在でも主流です。

現在では政府が国史編纂などということはやらないし、やっても学術的に事実に基づいた編纂
ができるかというと、甚だ疑問ということになります。

本書もそういった意味では、綿々と続いてきている歴史の記録を補強するものとして、大きな
意義があるものと言えるでしょう。

 

読後感、感想

日本の古代史については、学校で教わるにしてもかなり大雑把であった記憶があります。
昔過ぎて資料が少ないとか、その信憑性が弱いなどという理由があるのでしょう。

しっかり納得いくまで知識が得られなかった分、他の時代や他の地域の歴史に比べてより
強い興味を覚えました。

その影響もあって本書を手に取り読んでみましたが、ほぼ知らないことばかりで読み進める
ことがかなり大変でした。

国史として編纂された書物というと、古事記・日本書紀でしょというレベルだったので無理も
ありません。

それどころが古事記は六国史に入ってこないということにまず驚き、そして日本書紀の後に
5回も国(天皇)による国史編纂がなされていたということに二度驚きました。

また、長い歴史を持つとされる日本において、6回しか国史編纂がなされていなかったという
事実も、意外なこととして私には受け取れました。

歴史は勝者が作るもの、と言われています。日本では王朝交代がなかったとされる万世一系が
信じられているので、歴史を書き換える必要などないとも思っていました。

ところが大友皇子が破れた壬申の乱の時、すでに即位していた可能性を示す資料が別にあり、
これによって明治時代に諡号が贈られたということなど、正史とされる書物では伏せられた
事実もたくさんあるのだろうということも示唆されています。

第一級の歴史的資料でありほぼこれしかないという唯一性は揺るぎませんが、だからといって
これら六国史に含まれる文献を完全に信じるのもリスクがあるという視点が得られました。

歴史はそれを見る時代の価値観にも左右されますから、いかに純粋な事実を抽出して記録して
いくのかがとても大切になってくるんですね。
非常に読み応えがある一冊でした。

失敗の本質 -日本軍の組織論的研究- 戸部良一 他著

失敗の本質 -日本軍の組織論的研究-

戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎 共著

”失敗の本質”を研究しそれを生かすための研究

本書はその表題からも分かる通り、旧日本軍の数々の失敗を組織としての失敗と捉え直し、
その教訓を、現在の組織運営や意思決定に生かすことを目的とした研究所となります。

本書のカバーにも、

大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、これを現代の組織一般にとっての教訓あるいは反面教師として活用することをねらいとした本書は、学際的な共同作業による、戦史の初の社会科学的分析である。

とあります。

つまり本書の分析は、日本的組織の根源的な問題点である、戦略的合理性よりも組織内の融和
や調和を優先し、その維持に多大なエネルギーを投入する性質を乗り越えるヒントになりうる
ものです。

本書の内容について

本書は、大東亜戦争における諸作戦の失敗を分析するために、大きく戦局を変えることに
なった以下の6つの作戦を選んで分析されています(目次より引用)。

ノモンハン事件−失敗の序曲
ミッドウェー作戦−海戦のターニング・ポイント
ガダルカナル作戦−陸戦のターニング・ポイント
インパール作戦−賭の失敗
レイテ海戦−自己認識の失敗
沖縄戦−終局段階での失敗

これら6つの作戦が選ばれた理由

これらの作戦が選ばれた理由として、ノモンハン事件は大東亜戦争には含まれていないが、
その作戦失敗の内容から見て、大東亜戦戦争におけるいくつかの失敗の予告をしているかの
ように考えられ、しかもこの失敗から学習されることがなかったことから選ばれています。

ミッドウェー作戦とガダルカナル作戦は、共にこの作戦の失敗を転機として敗北への道を走
り始めたものとして認識されています。また、作戦の成功と失敗の分岐点を明らかにする事例
としても注目される特徴を有しているために選ばれています。

インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦は、本来的な意味における「敗け方」の失敗の最も
典型的な事例を提供してくれているといいます。

数ある日本軍の作戦の中からこの6つが選ばれたのには、「失敗の本質」とも言える根本的な
欠陥を明らかにするために顕著な特徴が見られるためとなります。

「失敗の本質」とは

本書2章より失敗の本質についての分析結果が記述されていきます。

まずこの6つの作戦に共通する作戦の性質として、
①大規模戦闘である
②司令部と実戦部隊、実戦部隊間に時間的・空間的距離があった
③統合的近代戦(高度に機械化された戦闘部隊、補給、情報通信、後方支援の組合せ)
④あらかじめ策定された作戦に基づいた組織戦であった
という4つの要素がありました。

これらの要素が、日本軍の組織上の特性としての戦略発想上の特性や組織的な欠陥に、
より大きな注意を払うべきことを示唆している、と本書では指摘しています。

その上で本書においては失敗の要因を、「戦略上」「組織上」に分けて失敗要因の分析を
行なっています。

まず、「戦略上の失敗要因分析」として、「あいまいな戦略目的」「短期決戦の戦略志向」
「主観的で「帰納的」な戦略策定−空気の支配」「狭くて進化のない戦略オプション」
「アンバランスな戦闘技術体系」の5つが挙げられています。

これらの戦略上の失敗要因では、戦略目的があいまいであることや短期決戦志など、その他の
要因に関しても、日本的な組織が目的の明確化よりも会議や会合時の構成員の調和を重視する
傾向が見られることを問題視しています。

一方、「組織上の失敗要因分析」として、「人的ネットワーク偏重の組織構造」「属人的な
組織の統合」「学習を軽視した組織」「プロセスや動機を重視した評価」の4つが挙げられて
います。

組織上の失敗要因でも、日本的組織の良さとして認識されている場の空気を読む、というよう
な習慣が、このような組織内での意思決定に関し、責任の所在があいまいになったり、行動の
目的が明確化できないなどの結果に表れてきます。

”失敗の本質”から学ぶ今日的課題

本書3章では「失敗の教訓」として、これまでに検討してきた失敗の本質から学び、今日に
おける組織運営で生かすべき教訓について述べられています。

日本軍の失敗の本質から、自己革新組織であることが組織運営では重要であるとされます。

自己革新組織であるためには、「不均衡の創造」「自律性確保」「創造的破壊による突出」
「異端・偶然との共存」「知識の淘汰と蓄積」「統合的価値の共有」の6つの性質を持っている
ことが求められます。

こうした性質を持っている組織は、日本軍が失敗を引き起こす原因となった空気の支配や、
属人的な組織、結果よりも過程や動機を重視した評価といった状態が生まれた時に、それらを
自らの組織の中で改善していくことができるようになってきます。

日本的な雰囲気の組織の中では、どんなに小さな組織であっても空気の支配などが非常に強く
影響していることが感じ取れます。

そうしたものが組織としての意思決定を誤らせる、という共通認識を構成員が共有することが
日本軍のような失敗を繰り返さないための第一歩であると言えそうです。

 

本書を読んだまとめ

本書は日本軍の組織的なマズさから生まれた失敗を分析し、数々の作戦で目的を達せられ
なかった原因を浮き上がらせることを目的とした本でした。

本書を読み進める間、かつて多くの犠牲を伴う失敗を繰り返してきた日本軍という組織と、
私自身が属する会社組織での失敗を引き起こす構造が、とても似ていることを感じました。

もはや日本軍があのようになったのは、日本社会で育った人々が組織となる場合には不可避
なのでは?と思うほどです。

しかし本書が徹底的に失敗を分析し、その本質的な部分を現代の組織運営に活かせるように
整理してくれています。

現在、新型コロナウィルスの流行で外出の自粛要請が行政より発信されています。
これに伴い様々な給付制度や支援制度の拡充も追加で行われています。

特に外出自粛は感染拡大を防ぐだけではなく、この流行を収束させるためにも大変重要な方策
となっており、クラスターさえ防げば収束できるとのことです。

北海道ではこの対策を徹底的に行なったおかげで、すでに感染拡大のピークは過ぎ、収束へと
向かっているとも言われています。

一方で首都圏では未だに感染が拡大しており、本日(2020年4月6日)時点では緊急事態宣言
の発令をする、ということが決まりました。やっとか、という感想です。

ここへ来てやっと、決め手の行動を始めることになった首都圏ですが、これは本書で触れて
いるガダルカナル作戦における戦力の随時投入(少しずつ兵力を分散して送る)に似ており、
少しずつの自粛要請では、ただ不便なだけで一向に収束には向かいませんでした。

さらに悪いことに、週末のみの外出自粛ということで事態の深刻さが伝わっておらず、外出や
旅行に出かける人も出てきたりして、感染拡大が地方にまで飛び火していました。

まさに日本軍の犯した失敗の本質の通りに事が動いているような印象です。
このような有用な分析があっても、危機となったら冷静な判断も難しくなります。

そこで、本書が提示するような「自己革新組織」が自然と生まれるような教育を行なったり、
啓蒙活動を行なって、それが当たり前になるような「空気」を作り出す事が、今の日本には
必要な事なのでは、と思うのです。

外野から見ている限りはまさに旧日本軍のそれと全く同じ、意思決定ができない組織に見え
ますが、実は組織の内部や会議室では革新的組織のような議論がなされている、と思いたい
ものです。

 

自動車と私 カール・ベンツ自伝 カール・ベンツ 著

『自動車と私 カール・ベンツ自伝』

カール・ベンツ 著、藤川芳朗 訳

高級車の代名詞 Mercedes-Benz

今となっては高級車の代名詞となっているメルセデス・ベンツ。
この本は、その名前(ベンツ)の元になった人の伝記です。

社名がメルセデス・ベンツなのに、創業者はカール・ベンツ。
私は創業者の名前が「メルセデス・ベンツ」さんだとずっと思ってました。

なぜメルセデスになったのかは、会社の合併とか統合があった末のことのようですが、
今回の本の内容ではそこまで触れていないので、当記事でもスルーしてしまいます。
クルマ好きの人なら当然知っている事なのかもしれません。

高級ブランドとしての地位を確立しているメルセデス・ベンツですが、
なぜその地位を得るに至ったのか。

その根源的な思想や、創業に至るプロセスを、本人の言葉で知ることができるのが
伝記のとても良いところ。

そんなわけで読み進めていくわけですが、
やはり確固たる理由があって今の地位を得たのだなあと納得しました。

「最善か無か」

メルセデス・ベンツといえば、「The best or nothing」、
つまり「最善か無か」です。

この本を読んでこの考え方がカッコイイのと、
命を預かる乗り物を作るんだという使命感に感化されて
身の程知らずにもメルセデス・ベンツに乗りたいって思ってしまったのです。

こうした思想の元に車を作り続けているからこそ、
世界一安全な自動車であると言われているのです。

安全性を高めるためには、最高レベルのものを搭載しなければ意味がない。
コストや他の理由で次善のものを採用するくらいなら、それは使わない方がいい。
それによって救えた命を失うことになっては元も子もないってことです。

そんな潔さも感じられる考え方です。
だからこそ、メルセデス・ベンツの安全性には確固たる信頼があるのでしょうね。

世界初、馬がなくても動くクルマ

ベンツ創業者がカールさん、というのも初めて知るくらい
高級輸入車について関心がなかった私ですが、

世界で初めて、
【馬がなくても走る4輪車】
を発明した人の自伝を読んだら、もうこれはすごい。

今や数万点の構成部品が存在すると言われる自動車。
もはや精密機械ですね。

そんな自動車を構成する部品群、例えば
▪️エンジン内の着火機構(スパークプラグ)とその電源
▪️慣性力により燃焼過程以外の回転をエンジンに与えるフライホール
▪️過熱したエンジンを冷却するためのラジエーター
などなど、それぞれが複雑な機構を持つ部品について、
いちいち全部、発明しているんですね。
これには度肝を抜かれましたね。

そもそも、エンジンを動力源として乗り物に応用すること、
その理論は従来からあったが、これを実用化できる段階まで成熟させ、
実際に作り上げて市場に供給するところまで成し遂げている。

自動車は今や当たり前に存在する機械の1つとなっていますが、
たかだか100年ちょっとの歴史しかないんですね。

そのスタート地点のエピソードを、
自動車を発明した本人が語っている、ということ。
歴史的な観点からも、1次資料としても貴重なんじゃないかと思う次第です。

 

クルマ好きなら一生に一度はベンツ!

私もクルマオタクの端くれとして「いつかはポルシェ」なんて思ってたりしましたが、
この本のインパクトが強すぎて、それすらも霞んでしまいそうです。

「上がり」の車(人生で最後に乗る最高の車)は
メルセデスのSクラス、なんてことも言われているくらいですから、
やっぱり他の追随を許さない凄みがあるんだろうなと思います。

乗ってみたいけれど容易には手が届かない。
そういう立ち位置にいるからこそ、憧れでもありますし、
世界一安全である、という実用面でのメリットも「上がり」要素を
強化しているように思えました。

ちなみに、今はもうメルセデス・ベンツは
マニュアルトランスミッション(MT)車を作っていません。

車を安全に走らせるには、運転だけに集中する方がいいですからね。
それに人間がシフトチェンジするよりも自動化した方が速いし確実。

そんなわけで「最善か無か」のメルセデス・ベンツは、
最善ではないMTを作らないのかもしれません。

今やMTしゃは、一部のマニア向けの情緒的な装備に成り下がってしまったと
いうことなのでしょうか。。
そこは少々寂しくもありますね。

ユダヤは日本に何をしたか -我が愛する子や孫へ語り継ぎたい- 渡部悌治 著

ユダヤは日本に何をした-我が愛する子や孫へ語り継ぎたい-

渡部悌治 著

 

「ユダヤ」というキーワードでアレルギー反応を起こしてしまう人がいます。
私は別に何も思わないし感じないのですが、陰謀論としてネット上などで語られていることが
真実であるとしたら、そういった反応を示す理由もわからなくもないな、と思うのです。

この本を読んだ理由は、
私自身が陰謀論やトンデモ説が好き(単に興味深い)だから、ということと、
もしも陰謀的なものが本当に存在しているとして、自分の身を守るにはどう動くべきかを
あらかじめ知っておきたかった、というものです。

世界を裏で動かしているのはユダヤ資本だ、なんてことも目にしますが、
そういったことを実現できる力が彼らにはあるんだな、と思えば
学ぶべきこともたくさんありそうですよね。
そういうスケベ心もあったりして、
コレ系の本には興味を持って読んでいます。

よくある陰謀論的なやつ

いわゆる陰謀論というやつですかね。
こういうのは話半分に読んでみる、というのが私の立ち位置です。
とはいえ、こういう主張(現在の日本では表に出てこない視点)が存在する、
ということを認識して自分の中で吟味することを通じて、
現実世界とのバランスを取っているともいえます。
で、当書籍はフリーメイソンとかいろいろ陰謀論的な本とか記事を見かけたりしますが、
いわゆるそういった本の元になったんじゃないかっていう立ち位置の本でした。
陰謀論をトンデモ記事として受け取らないとしたら、ヤバイ内容です。
”先の大戦を大人として経験した著者が残した記録”
そんな体裁で書かれた書籍、といった印象を受けました。

全ては武器商人であるユダヤ系財閥が仕組んだ

内容に関しては、太平洋戦争を始めとした大きな戦争や紛争も
すべては武器商人たるユダヤ系の財閥が仕組んだことである、
という視点に立っています。
そして戦争当事国の日本やアメリカ、その他欧州の国々についても
後ろでユダヤ系財閥が糸を引いている…
そんなお話の展開。
ああ、いつものアレね、って印象でした。
ユダヤといえば強大な資本力、財閥、フリーメーソン…
確かにユダヤ系の人々は、金融方面での実務能力がすごく高い。
古代からユダヤといえば金融、金融といえばユダヤ。
「バビロンの大富豪」もユダヤ系(だったと思う、うろ覚え…)。
お金のノウハウはユダヤ系の資料に当たるのが手っ取り早いし確実。
そんな認識です。
荒野を彷徨い、他民族に迫害され続けてきたが故の、
生き残るための知恵、強さ。
これを獲得するプロセスとしては悲しいものがありますが、
長い歴史の中で、他民族と混ざり合い消えてしまうことがなかったという点に、
奇跡的なものを見ます。
それだけ選民意識が高かったのか、どういう意図だったのかはわかりませんが。

ユダヤ人の教えと大衆の隷属化

この本の読後感で心に引っかかったのは、
かつてよく読んでいた作家さんで本田健さんという人の本。
 ユダヤ人大富豪の教えについて書いていた人。
おっしゃっていることはご最もだと思い、読むことをオススメしたいですが、
この人のセミナーに入り浸っている人は、お金持ちになってないから入り浸っている…
精神的に依存してしまっているからお金持ちになる行動に繋がらないのかもしれませんが、
これってユダヤ系財閥が、それ以外の民族や社会からお金を集めている構図みたいだ、と
ふと思ってみたりしました。
圧倒的な知識とノウハウによって教え(何らかのメリット)を授ける代わりに
対価としてのお金を得る。
そこまではいいんですが、その後もずっとメリットを与え続けられてしまうと
自分で考えられなくなっちゃうのでは、という危機感を感じました。

日本社会もその影響下にあるのか

詳しくは本書を紐解いていただくとして、
日本の国全体を腑抜けにする、という「大いなる意志」。
その一端としての個人主義の普遍化。
太平洋戦争の敗戦後、GHQによって教育改革がなされました。
これによって戦前の価値観を全否定し、戦争を起こした日本という国は罪深い、
という意識を刻みつけられた国民。
これが長年続けられた結果、自国を大切に思うという感覚がない国が出来上がりました。
日本ってなんかダメな国、という印象を確かに幼い時に持っていました。
その後、色々なことを知るに従い、そうでもないこともわかりました。
ここ最近の体感としては、自分の頭で考えて判断するという大人が少ない様に思います。
会社の上司、同僚、部下も然りですが、自分の人生を外部に丸投げしている様な感じ。
そのくせ、不満は立派に持っている。
自分で考えられない状態=外部の存在(支配者?)に隷属
こんな図式がふと、頭に思い浮かんで、少々背筋が寒くなりました。
こうした社会の変化が全てユダヤ系の陰謀な訳がないですが、
ちょっとは自分の頭で考えて判断できる人が増えてほしいな、と
思ってしまうのでした。
こういう本を読むと、しっかり自分で情報を集めて判断して行動へ繋げることが
とても大切で、自分の人生を生きることにも繋がるんだなあ、なんて思います。
ちょっと本の内容からはズレてしまいましたが、
「自分の頭で考える」
ということの大切さにも気づかせてくれた本でした。

ウナギ養殖業の歴史 増井好男 著

ウナギ養殖業の歴史 増井好男 著

タイトルの本を読んで、
そうだ、今年は土用にウナギを食べていない…と気づきました。
そしたらなんと、毎年恒例の夏風邪を引きました。

今年は生野菜と玄米とお水2L/日を毎日続けているから、
夏風邪とは無縁の夏を過ごせると自信満々でした。

しかし…

連日の激務と過大な人間関係のストレス、そして睡眠不足が重なって、
ついに鼻の奥の粘膜に違和感が。

カラダとしては緊急事態発生です。
鼻粘膜にウィルス上陸、
すなわち体調が悪い。

もはやこれまで・・・。
今年の夏も、やはり来たか。

夏場は暑さで体力が奪われます。
だからスタミナ満点のうなぎを食べよう、というのは理に適ってると思います。
(ウナギの旬は冬なんだそうですけどね)

土用は季節の変わり目だし、丑の日だから、「う」のつく「うなぎ」を食べよう!
ウドンでもいいらしい。なんでもアリだな。。

昔の人は洒落っ気があったんですね。

それはともかく。
職場では土用の丑の日にウナギを食べた(と自慢している)人はぴんぴんしてる。
夏に風邪なんか引くわけないじゃん、という顔。

こうなることが予見されたので、今年こそは夏にうなぎを食べるんだ!と
心に決めていた私は、7月上旬にお店でうな丼¥1,700-を食べたのです。
季節の変わり目とか関係なかったのです。

【ウナギを食べた】から、今年は風邪ひかない!ってタカを括ってました。
ゲン担ぎの意味もあったのですがね。。

ですが、やはりおかしな時期に食べても効果は薄いのですね。
土用の丑の日、つまり夏のピークを過ぎて秋の気配が始まるこのタイミングで食べなきゃ、
無病息災とはならんのかもしれないのです。

土用(季節の変わり目)にウナギ。
昔の人すごい。知ってか知らずか、経験則的にウナギ食べると風邪ひかないって言うのを知っていたわけで。

事実、私はうなぎを食べなかったせいで夏風邪をひきました。
そんな馬鹿な、って思うかもしれませんがひきました。

因果関係はないかもしれません。
うなぎを食べ損なった、
ってことで無意識が風邪をひくように免疫系を操作したのかもしれません。

そういったことはどうでもいいのです。

事実、私は土用丑の日が過ぎた今、風邪をひいている!
しかもこじらせて4日目の苦しみの中にいる!(明日も仕事)

これはもう書かずにはいられない。
職場で非常勤講師の先生に、
「やっぱり丑の日にうなぎたべなかったからよ!」
って言われたのが決定打。

これはうなぎを食べなければ!
しかも、中国産のブヨブヨのまずいうなぎではなく、
国産のふかふかのやわらかいうなぎを食べなければいけません。

じゃあ、いつ食べるのか?
食べるための予算は組めるのか?
うなぎをおいしく食べるためのお店はどこにあるのか?

それら、「おいしいうなぎ」を食べるためには障壁がいくつも立ちはだかっています。
しかし、明確な目的意識と、確固たる決意、そして何よりも、
「おいしいうなぎが食べたい」
その情熱がある限り、私は必ずおいしいうなぎを食べることができるはず。

今日のブログではうなぎを食べるところまでは書ききれませんが、
近日中に必ずおいしい国内産のうなぎを食べたことを自慢したい。

それまでにどうか、夏が終わりません様に!!

タイトルの本とほぼ無関係な、
単に私がおかしなタイミングでウナギ食べて風邪ひいたと言う内容になってしまいました。

ウナギはいまだに完全養殖ができない生き物です。
そんなウナギの養殖史。
とても勉強になり、これからウナギを食うときには、思いを馳せることになるでしょう。。

それにしても、国産で天然のウナギっておいしいんですよね。
中国産のウナギはなんでゴムみたいになるんだろうか。中国産っていうだけでマズそうな印象を個人的には強烈に持っています。

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか 

ジャレド・ダイアモンド 著、長谷川寿一 訳

人間を動物の一種として考察した本

私たち人間は、動物の一種であることを忘れがちですが、
こうした生殖に関する切り口から考察するとき、私たちもまただ動物であると
認識を新たにすることができます。

本書は性のあり方についての切り口から、進化生物学者である著者が面白くかつ、
わかりやすく説明している本です。

なお、原題の「Why Is Sex Fun? :The Evolution Of Human Sexuality」は大いに興味を
惹かれますが、訳者が原書を輸入しようとした際にポルノ扱いされ、アメリカの書店に
「貴国では通関できない可能性があるため送れない」と言われたそうです。

実際、ポルノではなく人類の性を通じて近縁種との比較を行う、極めて真面目な学術書です。

 

アレはなんで楽しいんでしょう?という考察

口にするのが憚られるアレですが、なんで楽しいのかを考えたことがある人は
実際にそんなに多くないのではと思います。

コトに及ぶにあたり、そんなの考えてる暇がないわけです。
生物として最重要課題とされている生殖機会をみすみす逃すわけにはいかないからです。

あえてそこに注目して、真面目な研究として形にした著者の手腕はさすがです。

本書の内容としてはタイトル通り、
ヒトの性についての考察です。

ですが、その理解を助けるために近縁種であるチンパンジーやゴリラ、ボノボなどについても
記述があります。

それぞれについての生殖活動を考察すると、三者三様の形態が判明します。
乱婚型であったりハーレム型だったり。はたまた一夫一妻型の種もいます。

そのような分類の上でいうと、人間はなんなの?という事になりますが、これは
倫理的に非常に難しい問題を孕んでいると言えます。
人間についての分類ももちろんなされています。

それは生き残るために有利に働いたからこそ、今の形になっているのは間違いありません。

人間の本来の生殖形態とは?

人間は人目をはばかり隠れてコトに及びますが、
進化上、そうすることが遺伝子の伝達に有利になるということです。

結論として人間の生殖形態は「マイホームパパ説」「多数の父親説」と
二つの考え方が提出されています。

人間が自らの生態について考察するとき、私たちは個人差や好みの問題、
さらには倫理観などの価値観にも影響を受けます。

しかし純粋に生物としてみたときに、どういった形態を持つ事になるのか?
非常に興味深いテーマでもあります。

そしてこのテーマの結論によっては、倫理的に認められない行為を正当化しうることも
想定されます。非常にデリケートな問題とも言えますね。

内容まとめ

本書では、そうした生殖に至る形態や、人間の女性が自身の妊娠が自分でわからない理由、
毎月生理が起こるようになった理由なども語られています。

一般的に動物は発情期がありますが、人間は常に発情期であるとも見ることができる…と
いう考え方もあるようですね。

そういう観点を得ると、やはり人間は動物の一種といえどもかなり特殊な存在となっている、
という風に思わざるを得ません。

純粋に学問的な関心で読んでも楽しいですが、中高生が日常的な興味から、
進化生物学に興味を持つきっかけになりそうな本でもあります。

 

この本で得られること

本書は私たち人間の生殖について注目し、その存在についても考察した本です。

生きていく上で欠かすことのできない「性」についての問題を、真面目に、かつ
ユーモアを交えて説明する本書は、タブー視されているテーマについての深い洞察を
もたらしてくれます。

社会生活を営む上で、本書のような知識は必要とされていないかのような風潮ですが、
性の乱れや商品化が進む現代社会において、このような知識を広めることで、
一旦自分たちの存在や性に関する認識が改められるきっかけになることでしょう。

何よりも、社会の中で性について語ることがタブー視されている中で、
学術的に真面目な観点から語られている本書は、現代社会に対する問題提起としても
活用されてしかるべきでないかと思えるものです。

 

この本をオススメしたい人

人間存在の本質に迫りたい人。一見くだらないテーマだと切り捨てられがちな「性」ですが、
人間が生まれるためには必ず通る行為です。

本来、尊い行為であるにも関わらず、宗教的な制約や社会的通念によって、汚らわしいものと
いった見方がなされてきました。

社会的に語ることがタブー視されるテーマなだけに、そういった話題に嫌悪感や忌避感を
感じる人にこそ読んでみてほしい本です。

また、性に関して興味が生まれるであろう中高生に対しても、真面目に性に対して向かい合う
きっかけとなる本でもあります。こういった本が学校などで取り上げられることで、
性の商品化や安易な性行為に結びつかないように、健全な性教育へと繋げるきっかけとして
ほしいとも願います。

書評まとめ

実は興味がある、という人が多そうなテーマですが、社会通念上、このようなテーマを
大々的に語ることはタブーとされています。

しかし著者のようなすでに実績のある大学者が著す事によって、口にするのが憚られる
性に関するテーマであっても、ごく真面目に、そのテーマを深めていくことができます。

そういった意味でも本書の存在意義というのは、社会にもたらす影響も含めて、
偉大な著作であると言えるでしょう。

本書を通じて人間の性について理解し、そして自分たちがどのように振る舞いがちなのかを
改めて認識することで、倫理的にも叶った行動を取れるよう自省することも可能となります。

ぜひ広く色々な人に読んでほしい、とても素晴らしい名著です。

魔法入門 カバラの密議 W・E・バトラー 著

魔法入門 カバラの密議 W・E・バトラー 著 大沼忠弘 訳

上記の本は、
Ⅰ.魔法 その儀式・効力・目的
Ⅱ.魔法使い その訓練と仕事

の2部構成となっています。
元々、バトラーさんが書いた2冊の本だったそうなので、分けて書きました。

 

第1部 魔法 その儀式・効力・目的

魔法、というと何をイメージするでしょうか?
空を飛んだり火を出したり。そんな感じでしょうか?

私も魔法について知り始めたときは、そんなイメージでした。
それと同時に、そんなバカな…と思っていました。
それでも魔法が使えたら?と憧れたものです。

現代における魔法とは、
太古より伝わる精神変容の秘法である、とのこと。

中身を読んでみるとわかりますが、
確かに魔法の基礎は、自分の意のままに精神を制御する方法のようです。

精神、というか無意識の領域へのアプローチですね。
呼吸とか儀式とか、そういった動作から精神へ作用させる技法。

 

そういった精神面へのアプローチ方法なので、
入門編で触れられている内容は
まずは自分の内面を磨くという観点の記述となっています。

では、自分の精神を制御できるようになったらどうなるのか?
火の玉が出せたり悪魔を召喚できたりするのか?

出来ると言えば出来る…かもしれない。
でも、そんなこと本気で発言したり儀式したりしてたら、
精神面での異常を疑われかねない…。

アストラル投射

本当の魔法には「アストラル投射」という技法があり、
心のスクリーンに映し出した形象を外界へ投射するというものがあります。

あります、って。実際どんなもんなのでしょう?
ルドルフ・シュタイナーが書いた本には、さも当たり前のように出てきますが。

我々肉体は、大いなる存在(イデア的なもの)の表象の1つに過ぎない
という考え方があります。
もう仏教チックです。

で、高次の存在たるアストラル界にあるものがアストラル体というもので、
そこの繋がるためには、精神を強靭にしなければならない。

低次元の肉体に囚われている我々の意識にとって、
アストラル界は情報量が膨大なので、現状の精神では耐えることが出来ない。
精神的な疾患を患う恐れがあると。

魔法が科学に近づくきっかけとして、フロイトやユング派の心理学が貢献しているそうです。
有名な「無意識」「潜在意識」ですね。

その、我々の意識では捉えどころのない無意識に繋がることで、
凄まじい効果を発揮しましょう、っていうのが魔法ということになる。

 

魔法と科学 自然へのアプローチ法の違い

西洋魔術の考え方なので用語などがどうしてもユダヤ・キリスト教なのですが、
大いなる存在とか神なんていうのは全世界で共通で、
それに繋がるチャンネルの違いが各宗教として形になっている、という事。

原始仏教の話にも似ている印象ですね。
精神修行の目的も、「空」に達するための手段だと思えば納得。

かつて数学も魔術の一分野だった、ということを考えれば、
魔法も科学も違いはないのかなあ、と落ち着いてしまいそう。

再現性を持たせるために儀式の手順を厳格に決めたり(魔法)、
論文で実験手順や条件を明示して再現実験ができたり(科学)。

いわば今の我々こそ、科学万能教の信者なのかも?
という視点で捉え直してみると面白いかも。

第2部 魔法使い その訓練と仕事

魔法使いになるための初歩的な訓練方法と、
それを活かした仕事について書かれています。

この本では、本来は秘密にされているべき内容も書かれているとのことで、
本格的な訓練内容についての記述が続きます。

また、魔法使いの仕事について、
魔法活動によって力を得る意図を、「仲間のために奉仕する」としなさい、
さもなければ低位の存在の奴隷となってしまう

と、書いてあります。
以下、本書の内容を要約してみます。

他者へ危害を加えることを目的とした、いわゆる黒魔術的なものも、
他者を癒すしたり助けたりすることを目的とした、いわゆる白魔法的なもの。

どちらも作用するものは一緒で、術者の意図によってそれらは使い分けられます。

魔法活動の結果は自分にも影響を与えるから、
そこをちゃんと考えてやるように、と注意されているようです。

魔法活動においては、物質的な存在を拠り所とすることは有用。
つまり「魔除け」というアイテムが、精神分裂を防ぐとのこと。
その魔除けは中古品はダメで、自分で作ったものが最高。

精神的に思い入れを持てるものを魔除けにしなさいよということですね。
他人が作ったものや中古のモノって、なんかイヤだもんね。

 

この本は、

結構秘密の訓練も公開している性質上、ワザと支離滅裂な構成にした。
しかし、この中から得るものを得て、
一人前の魔法使いになる足がかりを得られることを狙っている。

という。

巻末には各訓練の準備や基礎となる方法を3つほど記述されており、
本文中では「?」だった内容の理解を助ける内容となっています。

ちなみに、最後の付録に「弛緩と呼吸の訓練」という項があります。

呼吸を活用するところが、やはり精神面へのアプローチなんだなぁと
確信するポイントですね。

魔法と現代との関連

これを読んだとき、
催眠術の準備段階とかクォンタムタッチ等のヒーリング技法に似てるなぁ、
と思いました。

やはり精神、とくに潜在意識にアクセスするには
リラックスした(=変性意識)状態が有効なんだなあと。

考え方も納得の内容で、
完全に弛緩させ、呼吸を楽に深く繰り返すことにより、体感覚を消失させ云々…とあり、
魔法活動は精神活動そのものなんだと、いろいろと繋がりました。

やっぱり人間の感じる事、考えることは世界共通なのかなあと思う次第です。
身体を思い通りにコントロールするには精神面の充実が必須。

精神面が発達すれば、確かに
現実世界への影響=魔法
として、何か影響を与えることができるのかもしれないですね。

銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎 ジャレド・ダイアモンド 著

銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎 

ジャレド・ダイアモンド 著

1万3,000年前に渡る人類史の謎の解明

本書は、文明がなぜ多様かつ不均衡な発展を遂げたのかを、
著者の研究領域である進化生物学、生物地理学、鳥類学、人類生態学などの知見を
統合した独自の視点で解明していく内容です。

すごく売れた本なのでそれなりに面白いんだろうという期待に満ちた気持ちで
読み進めていきますが、如何せん分量が鬼のような本です。
面白くてドンドン読める、とは行っても私も通読するのに1週間くらいかかった大著です。

読むのに労力がいるとしても、人類の文明史や文明の衝突、現在の世界がこうなった理由が
すごい納得感と共に得られます。
大人の教養として、世界情勢このような姿になった理由の1つの説として持っておくべき
知識でしょう。

著者について

1937年ボストン生まれ。ハーバード大学で生物学、ケンブリッジ大学で生理学を修めるが、やがてその研究領域は進化生物学、生物地理学、鳥類学、人類生態学へと発展していく。『銃・病原菌・鉄(上)(下)』(倉骨彰訳、小社刊)はそれらの広範な知見を統合し、文明がなぜ多様かつ不均衡な発展を遂げたのかを解明して世界的なベストセラーとなった。カリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部生理学教授を経て、現在は同校地理学教授。アメリカ科学アカデミー、アメリカ芸術科学アカデミー、アメリカ哲学協会の会員にも選ばれている。アメリカ国家科学賞、タイラー賞、コスモス国際賞など受賞は多く、『銃・病原菌・鉄』ではピュリッツァ-賞を受賞している。邦訳書は上記のほかに『セックスはなぜ楽しいか』(長谷川寿一訳、小社刊)『人間はどこまでチンパンジーか?』(長谷川真理子・長谷川寿一訳、新曜社刊)がある。

-amazon「著者について」より引用-

広範な著者の知識と、それを支える膨大な研究活動によって、本書の記述は生まれています。
読み進める中で、この人の専門はなんだっけ…と思うくらいに色々な分野に精通してます。
何よりも著者本人が楽しみながら研究をしているのが伝わってきて、
読みながら羨ましい気持ちにもさせられます。

本書の内容

文明を分かつ鍵、それは「環境」

本書は、文明により征服者・被征服者となった理由として、
「環境」
が最も大きな理由であると説きます。
今でこそ公的に、堂々と口にすることは憚られるようになりましたが、
未だに世界は人種による差別が残っています。
口には出さずとも、白人至上主義であったり、欧米優位の価値観が世界には
共有されている「雰囲気」があります。
日本の中で見ても、なんとなく欧米産のものは高価で品位があるようなイメージ。
輸入車でいうと、欧州車に乗っているとお金持ちだなんて思われがちです。
見栄っ張りが無理して乗っていることも多々ありますが。
ともかく、なんとなく欧米的なもの=優れているもの、という印象が、
どうしても付いて回ってしまうのです。
しかし、です。
著者も言及していますが、果たして欧米の人たちが、他の種族よりも
優秀だから世界を支配する形になったのか?という疑問があります。
もしも優秀ならば、出身地を取り替えた場合、
例えばヨーロッパとアメリカ大陸の人種を入れ替えた場合、
アメリカからヨーロッパへと銃と軍馬を持って侵略できたのかということです。
本書では、それは絶対にありえないと言います。
なぜならそれは、環境が発展の可否や方向性を決めるから、です。
今の世界は、必然的にそうならざるを得なかったから、こうなっているのです。

おおよそ13,000年前に分岐が始まった

まず、東西に広がるユーラシア大陸では同一緯度の地域が広がっており、
このことは、別の地域の作物でも、環境が似ていて育て易くなります。
狩猟採集生活から抜け出した人々は、各地で定住し農耕を始めますが、
農耕や牧畜では、従来からは思いもよらぬ病原菌が人間に感染します。
もちろん人が死にますが、生き残る人もいて、次第に免疫が出来ます。
また、農耕民は食物供給が安定化、大規模化→人口爆発が起こります。
すると、国家の萌芽とも言えるような現象が現れます。
すなわち、
人口爆発→非生産民の出現→職業軍人の発生→軍隊の大規模化→殺戮集団の誕生。
国家間の大規模戦闘が生まれる背景には、
人類の定住化とそれに伴う農耕の開始が深く絡んでいます。
こうしたことが、約13,000年前から進化し始めました。
一方、アメリカ大陸も同様のことが起こりますが、ややスタートが遅れます。
アフリカ発の人類が大移動をつづけ、アジアを経て約1万年前くらいに、
やっとアメリカ大陸へと住みつきます。
南北に長いアメリカ大陸は、別の地域の作物が育てられません(気候が違いすぎる)。
そしてアジアを経て移動してくる人類は、
アリューシャン列島からアラスカ入り。

現在のイヌイットの人々が農耕をしないように、移動してきた人類も狩猟採集民方式の生活。

農耕民はわざわざ厳しい環境を超えずとも定住できていますし、
アラスカを超えようとも思いません。
だから農耕技術の伝播はかあり得ません。
そこでの人類にとっては、生き残る知恵(=狩猟採集のスキル)が重要です。
こうした環境上の条件の結果、南北アメリカ大陸では狩猟採集が主。
良くて小規模農耕がかろうじてできたかどうかというレベル。
したがって人口が増えず、軍隊もできません。
さらには当時のアメリカでは、氷河期で大型哺乳類が絶滅した後です。
つまりは家畜になりうる動物の種類が少ない。
戦争に利用できる動物も必然的に少なくなります。
農耕も家畜も中途半端。
そして幸か不幸か、病気もなく平和に過ごしていました…。

文明の衝突、一方的な殺戮・搾取

このような文明の進歩する要素に絶対的な違いがある両者ですが、
進歩が早ければ争いも激しく、そして戦う技術も発達します。
歴史的に戦争だらけの欧州では、世界に先んじて世界帝国となる国々が出てきます。
そして西暦1492年。ついに好戦的なユーラシア出身の民族にアメリカ大陸が見つかります。
当時、アメリカ側にも大帝国が2つありました。
しかし、それすらも150人足らずのスペイン兵によって滅亡させられてしまいます。
征服されてしまった側でも、数万人の屈強な裸の男たちが待ち構えていました。
武装と言えるものは棍棒くらいなもの。
銃はおろか剣(金属製の刃物)すらなかったと言います。
黄金は潤沢だったのに不思議です。
いくら武器が棍棒でほぼ裸であっても、
150人(銃+鉄の鎧)vs数万人(棍棒+半裸)の戦いで、150人のほうが勝ってしまう。
これでは戦いであるどころが、もはや一方的な殺戮です。
しかし実際にはもう一つの要素がありました。
それが本書のタイトルにもある「病原菌」です。
主にアステカの兵士は天然痘にやられたと言います。
病原菌の免疫があるかないか。
それは、農耕や牧畜をどれだけ大規模に長期間やってきたか、に影響します。
定住して安定的な生活をするだけではなく、
人間以外の生物との長期的な接触が、副次的に人類を強くしているのでした。

アフリカでも同様のことが起こった

アフリカは人類揺籃の地と言われています。
従って、進化する時間としては最も長く、有利な地理のはずです。

そんなアフリカでさえ、ユーラシアの民に征服されてしまいました。
アフリカも南北に長い大陸構造であり、さらに中央にはサハラ砂漠という
不毛の大地が広がっています。
広大な砂漠が、文化や技術の伝播を遮り、アメリカ同様の悲劇が起きます。

しかしアフリカにはアメリカとは異なり、多種多様な植物がありました。
ところが、投入する労力に対して得られるカロリーの大きな作物が無く、
家畜化可能な大型哺乳類がいなかったのです。

小規模な農耕は行われていました。
そしてアフリカ内部ではお互いに征服したりされたりという歴史があったようです。
これは言語学的考察から明らかだと言います。

感染症に対して脆いアフリカ

アフリカというと、致死的な感染症が新たに発生するケースが最近多いですが、
それは最近に限った話になります。

歴史的に大規模農耕を実践してこなかったため、ユーラシアのように病気への耐性が
獲得できていなかったのです。

だからこそ、大規模な農耕や森林の開拓などが進んでいる現代、人類が未知なる病原菌に
冒されてしまうという事態が頻発していると言えます。

そういった状況ですからヨーロッパの国々からもたらされる病原菌は、当時のアフリカの人々
にとっては致命的な伝染病をもたらします。

加えて戦闘経験の豊富なヨーロッパ系の国に対して成す術がなく、植民地だらけの状態へ
分割されていきます。

本書の内容まとめ

世界の5大陸のうち、
①ユーラシア大陸のみが広範囲で同一の作物を栽培できたこと
②家畜化に適した大型哺乳類の種類が豊富だったこと

金属利用や技術発展の礎になった

人種の優劣はありません。
純粋に知能の比較となると、
自然に近いところで生活している人の方が高いくらいだそうです。

それは、毎日を生きるために考え続けているから。
結局、環境によって進化の方向性が決まるということが言えます。

一旦、農耕を始めても、農耕不能な場所に来れば狩猟採集生活に戻ります。
一人で森の中にいたら、そこから農耕を初めて作物が取れるまでに、
飢え死にしてしまいます。

だから再び狩猟採集生活に戻らざるを得ないのです。
そういった意味で環境は、人類が進化するときの方向性を決める重要な要素なのです。
逆に言えば、環境に合わせて人類が生き残るために知恵を絞り、適応してきたとも言えます。

本書の結論として、もしもこれまでの歴史が何度繰り返されても、
結局はユーラシア大陸の誰かが他の大陸を征服することになります。
これは気候や地理的要因から、不変なことのようです。

かつてウィリアム・マクニールという有名な歴史学者が書いた
「世界史」という本でも、似たような考え方が紹介されていました。

本書は、歴史学者ではない人物の視点で書かれた書物、というところが
本書の存在理由でしょう。

本書をオススメする人

本書は人類が辿ってきた歴史を、環境や文明の面から考察した、新しい視点による
考察となります。
故に広く世界で受け入れられ、多くの人が読むことになったのでしょう。

多くの人が読んだということは、大人の共通認識として知って置く必要があるとも言えます。
すなわち、社会にいる大人全員が読むべき本である、と言えるでしょう。

 

この本から得られること

本書は、かつての支配者・勝者である欧米系人種の優越性を否定しうる根拠を示した本です。
その意味では、私たち日本人が無意識に劣等感を抱いている欧米諸国に対する心理的支柱とも
なりうる、大きな存在意義を持った本とも言えます。

本書を通読することで、人類は大した差はないんだということを、きちんとした根拠を持って
認識できるようになるはずです。

生まれた場所によって有利だったりする、という視点がもたらされたことによって、
今、どうにもウダツが上がらないと思う場合に引越しなど環境を変えてみる、
なんて発想になったりしませんかね?

環境は我々が思っている以上に重要です。
環境を理由にできない言い訳をするならば、
いっその事引っ越して環境を買えてしまいましょう!

 

書評まとめ

非常にボリュームのある読み応えのある本でした。

その分、主張する内容と、その根拠がしっかり示されているので、
一つずつ納得しながら読み進めることができます。
現代の名著となる本でしょう。

そして本書が名著と言われる所以が、これまで常識のように世界を覆っていた
欧米優位の価値観を覆しうる主張を展開しているということです。
結局、人類は皆大差ないんだということ。

これを理由に新たな争いを生む必要はありませんが、
世界中の人々が、この本のメッセージ性を受け取り共通認識として持つことができたら、
この本で触れられている歴史的な悲劇を繰り返さずに済む世界が実現できるでしょう。

それくらいスケールの大きなテーマですね。
近年稀に見るほどの良書です。

占星学 リズ・グリーン 著

占星学 リズ・グリーン (著)、岡本翔子(翻訳)、鏡リュウジ (翻訳)

占星学という本

今日は占星学、という分厚い本に挑戦しておりました。
昔からある占星術と現代の心理学の視点、この両方から占星術を記述した本です。

先日読んだ「どんな本でも大量に読める速読の本」にて、
積読について推奨されていました。

本の背表紙を何日も何日も眺めていると、無意識の領域へ記録されて、気になってくる。
そんな仕組みがあるそうです。

このことを知ってか知らずか、ついに5年以上前に買って積読していた
「占星学」
の本を紐解くことになりました。

この本は、一般的なビジネス書と違い、字が細かくて470ページあります。
いくら速読っぽく読めるようになったとはいえ、時間がかかります。

そこで、この本については何回かに分けてブログに挙げていこうと思います。

 

占星学についての誤解

まず、占星術についての誤解。
元々占星術というのは、新聞やテレビでやっている星占いとは全くと言っていいほど関係がなく、
生まれた時のホロスコープ(出生図)によって運命が決まるものでもないそうです。

その人の生まれた瞬間の星の位置に象徴される要素、
つまりその人の「可能性」や性格の「傾向」等を表すにすぎないものだということ。

真にこの出生図を活かすには、
その象徴されるものが人生においてどのように活用されてきたのか
これを把握しなければ本当の出生図の活用ができない

とのことです。

だから占星術師はじっくり話を聞きたがるわけですね。
(街中の占い師はまた別かと思いますが・・・)

そして第一章の「無意識の言葉」に移るわけですが・・・
これは日を改めて書くことにします。

 

第1章 無意識の言葉について

第一章の「無意識の言葉」という部分についてです。

人はみんな自分の事はよく知っていると思い込んでいますが、
その人を見る立場によって、全く違う別人のような評価をうけることがしばしばあります。

そのくらい自分の認識っていうのはあいまいなものなんです、という前提があります。
これは無意識の領域で、自我がどんなもんなのかわからない、というのに似ています。

そこで、
占星術における出生図(バースチャート)を用いて、
その人がどのようにこの世界を受け止める傾向があるのか、
またはその人が人生で挑戦していく性質はどんなものなのか

を、象徴体系を用いて表しますよ、というのが占星術なのだそうです。

こういうわけなので、星占いによって
「今日はラッキーデーです!」とか「片思いの彼に急接近!」とかいうのは
ナンセンスに感じてきてしまうわけです。

ただし(ここからは私見ですが)その日その日の星の位置を見て、
各星座(太陽の位置にある星座であることが多いです)上にある惑星を見てみれば、
上記のような判断を無理やりすることは可能な気がします。

 

しかしあくまで「お遊び」なので、これを真に受けてはいけないということになります。

日本などは宗教的な縛りがないので、こうした「星占い」のような、
目に見えない力に支配されてい感覚に飢えている、という説もあります。

脳は宗教や神を作り出す、という苫米地博士の説があるように、
何も考えずに信じられる「高次の存在」を、
人間は求めてしまうのかもしれませんね。

話が脱線しましたが、占星術というのは、その人の生まれ持った気質を象徴するにすぎず、
その気質を理解することで、よりよい人生の指針にしていくことが
バースチャートを活用する方法の1つですよ、という風に理解しました。

生まれた日によって決められる、初期設定のようなものですね。

自分がどのような初期設定で生まれてきたのか?
それを知ることで、より良い、自分らしい人生を生きやすくなるかもしれません。

 

 

⬇︎2019年に新版出てます。