空間の謎・時間の謎 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学 内井惣七 著


空間の謎・時間の謎―宇宙の始まりに迫る物理学と哲学 (中公新書)

古典力学から宇宙論までの連続性がわかる本、ではあるが

本書は「空間・時間」と「謎」という言葉から、どうやら科学と哲学が混ざったような本だろうなと思って興味を惹かれて買った本です。

その見込み通りの内容と展開ではあるのですが、新書という形式上一般向けの内容とする方針があるのか、数式をできるだけ使わないようにしている印象を受けました。

文系学科出身の方で数式アレルギーという場合、数式が目に入らないことは読み始めるハードルを大きく下げる効果があるのでしょう。

一方で元々理系だった私にとってはとても読みにくく、日本語の文章で概念や現象を丁寧に説明しようとしてくれているのですが、読んで飲み込むまでがちょっと手間がかかる本でした。

頭のいい人が書いた本だなあ…という、大学生のころの専門書を読むときのキツい感じを思い出しました。

あのいわゆる「教養程度で理解できるように平易に記述した」という、この本は超難しくて初心者にはわからないよ、って言外に言っているような、そんな雰囲気でした。

 

ニュートンとライプニッツの対比から

とはいえこの本の着眼点が素晴らしいと思ったのは、ニュートンやライプニッツという大昔の理論から現在に至るまで、その系譜が脈々とつながっていることや、ライプニッツ的な視点が宇宙論に見出されているということを改めて認識させられる点です。

私が宇宙論についての門外漢であるからなのかもしれませんが、最新の宇宙論や素粒子論、量子論について、ニュートンやライプニッツの思考が絡んでくるというのは新鮮な驚きでした。

まさに温故知新。違うか?

ライプニッツといえばその代表的な思想は「モナド論」。

そしてそのモナドは意思をもっていて、一つとして同じものがない…。

宇宙論や量子論に触れずにモナド論について勉強していると、「ああ、昔のおっさんが妄想してる…」などと思ってしまったものです。

しかし原子や分子を観察することさえできない時代において、思考や観察、実験だけでここまでの着想を得たのはまさに天才の成せる業でしょうね。

原子論とモナドの関連については、ライプニッツのモナド論を勉強しているときにはさすが天才という風には感じました(と言っても昔のおっさんの妄想の延長、と思っていましたが)。

ところが本書、「空間の謎・時間の謎」の中で触れているライプニッツは、これまでの認識を新たにせざるを得ませんでした。

なぜライプニッツが未だにここまで偉大視されているのか、またそのライバルとも言えるニュートンとの対比(どちらも微積分の発明者とされています)が現在まで続いているという事実。

この二人が力学に対する姿勢で対立したのは、どちらも正しかったからだ…ということがわかるのが宇宙論や量子論が確立されてからという。

死後300年近くが経ってからその理論がどっちも正しく、現象の本質を捉えていたことがわかる、その着眼点たるやさすがは天才といったところ。

力学の一学徒だった私にとっては、その慧眼には鳥肌が立つほどの衝撃でした。

 

先人の知恵の積み重ね

古典力学というものを、工学系学生は特に基本的な世界の捉え方として学びます。

「古典」と言われるからには現在はすでに死んだ学問だと思いきや、地上での現象やごく狭い範囲での力学的現象については、シンプルな数式でほぼ完全に計算ができる優れものです。

いわゆる運動方程式(F=ma)や慣性の法則、作用反作用のお話です。

その後、アインシュタインが相対性理論を提唱し、太陽周辺の空間が曲がっていることが観測から証明されるまでは、世界は運動方程式が完全に支配していると思われていた節があります。

現在でも地上の運動については、ニュートンの運動方程式で十分正確な計算が可能です。

ですが宇宙の話になると、それはまた別の世界の話だと勝手に思い込んでいました。

相対性理論や量子論は、宇宙のような広大な空間や分子や原子よりなお小さい素粒子の世界という、私たちには認識し得ない世界の話だと。

よく考えれば当たり前なんですが、古典力学による世界の認識があって、それをこの世全体に拡張するために大きな範囲や微小領域での修正するための理論が相対論や量子論になります。

だから古典力学が基礎としてあり、その上に積み上げられてきた考え方が相対論であり量子論である、ということです。

当たり前の話なのに、なんだか難しそうだし日常にあまり関わりを感じられない話として認識してしまったがために、勝手に別物の話だと思い込んでしまっていたのです。

これは私だけかもしれませんが、古典力学(高校の物理レベル)から相対性理論や量子力学(大学一般教養課程)の繋がりがはっきりわかると、途端に身近に感じられるようになります。

そしてその親しみやすさから、なんとなく苦手という意識が薄れていき、より専門的な領域へと勉強を進めていけるようになります。

通読するのに非常に労力の要る本でしたが、「新書」という形式である意味が読み終わってやっとわかったように思います。

この本の存在意義は、高校レベルの理科(多くの人が知っている知識)から大学レベル(やや専門的)への橋渡しを為すことなのだということ。

だから数式で正確に記述する必要はなく、さらに知りたい人向けには参考文献や類書(すぐ見つかります)を探して読めばいい、と。

やっぱり頭のいい人が書いた本だなあ…と、冒頭とは別の意味で感じた一冊でした。

 

宇宙論の曖昧なところが明確になる

この本を読んで私が得たものは、ビッグバン説やインフレーション説、それに重力が歩のエネルギーであるといった、言葉では知っているけれど結局なんなの?って思うことが明確になったことです。

これはとてもスッキリしましたし、宇宙についての厨二的思考の迷路からも抜け出せるように思います。

その「スッキリ」を得るためにも、本書前半のニュートンとライプニッツの対比や統計力学の説明が大切だったのだなあと思います。

ぶっちゃけ統計力学とか私にはフィーリングでしかわかりませんが、本書は数式がほぼ使われていないのでなんとかなりました。

理系出身の割には数式アレルギーがある私にとっては、このくらいの宇宙論がちょうどいいのかもしれません。

数式が得意!という方は、この新書を読み終わった後にはぜひもっと厳密な計算過程なども参照できる専門書にも挑戦してみてほしいですね。

私はひとまずの宇宙論の理解は、この本の水準で満足できてしまいました。

穀物文化の起源 家永泰光 著

穀物文化の起源 (作物・食物文化選書 (1))

低糖質生活を通じて「穀物文化」を見直した

この本は昭和57年に出版されたかなり古い本なのですが、なぜ今この本を読んだのかというと、ライザップに通って低糖質生活をしている中で穀物の摂取が激減したことがあったから、という理由があります。

私は元々白いご飯が大好きで、ご飯さえ炊いておけばおかずは納豆とかツナ缶など適当なもので済ませられるという食生活を続けていました(だから太りました)。

そんな太りやすい食物である米を始めとした穀物ですが、これがなければ飢えが襲ってくるかもしれない、という潜在的な怖れがあるように感じていました。

ライザップ開始時には、それこそもう二度と白いご飯やおいしいトーストとかは食べることはないのだ…という決死の覚悟で臨んだものです(実際には代謝を上げて、食事量や内容をコントールすれば食べられます)。

現実的に穀物が食べられないからと言って餓死するようなことはほぼない現代社会にはなっているのですが、なんだか心の底の本能的な”飢え”への怖れ、それが「穀物」の存在に大きく左右されているかもしれない…と感じたのです。

人類の発展には欠かせなかった穀物

糖質の比率が高く、耕作地の単位面積あたりから収穫されるカロリー量も多い穀物、特に米ですが、これは人類がここまで発展してくるためには必須の食物だったといえます。

この本では、なぜ今、活用されている穀物がお米や小麦と言った限られた品種となっているのかという栽培穀物選定の考察や、光合成能力が弱く人間が手を加えなければ育つことができないような品種をわざわざ使っている理由などについて掘り下げていきます。

また、お米や小麦が主要な作物として大規模に用いられる以前に使われていた、いわゆる雑穀と呼ばれる穀物との比較、さらには作物を効率よく育てるための知識の蓄積として、雑草の助教方法や、その方法としての水田を用いた方法、または焼畑農法の解説があります。

穀物の種類ごとの食味や栄養価などの人間に取ってのメリットと、植物自体の性質(光合成の能力が高い種別とそうでない種別の違いなど。主要穀物の米や麦は光合成の能力が弱い部類に含まれる)を比較し、今の作物を用いるだけの理由をも解明していきます。

経験知として蓄積されてきた農業として残っているのが現在使われている作物であり、そして農法であるといえます。

そして現在用いられている作物に絞り込まれたは、文字が登場するはるか昔の時点ということもわかってきています。

かなり昔の時点で、その蓄積され積み上げられた経験知というのがかなりのレベルに達していたのではないかと思わせるような事実です。

味や栄養は、主観的にとても大切な要素だっただろうし、おいしいお米が作れる人はきっと尊敬されて権力を握ったりもしたかもしれません。

この本は農業の本ではあるのですが、「穀物文化」について注目して探究を深めている本ですから、そうした歴史的な背景などにも考えが広がるような解説の展開となっています。

 

穀物文化の中の発酵食品

この本では、穀物文化のなかの要素として「発酵」についても触れている箇所があります。

別の本で漬物について調べたことがあるのですが、この本でも「すし」の起源は魚や動物を保存するための漬物だった、という見方を紹介しています。

すしの原型に近いものとしては、琵琶湖の鮒を使った熟鮓(なれずし)というものがあり、これは現在のすしのようにご飯を食べずに、これによって発行を進めるようになっています。

この熟鮓で使われるご飯は発酵する材料ですから、酸っぱくなります。

その後、その酸っぱいご飯も食べるようになって、魚も新鮮なものを使うようになって、生のままご飯に載せて食べるようになって…現在のお寿司に進化してきた、と想像ができます。

酢飯も元々はご飯自体が発酵して酸っぱくなっていたものが、現在では穀物酢を使って、いきなり酸っぱく味付けしている、というところが興味深いですね。

こうした発行のノウハウが伝播する過程と共に、穀物の利用品種の系統も各地へと伝わっていったともいえます。

土地の風土と植物の性質が合致して初めてそこに根付くものでもありますが、この本で考察している穀物文化を歴史の視点として設定すると、各地でその土地に合った形で残っていることがわかります。

お酒の醸造方法(大きく3つに分けられる)も、穀物の大部分を占める糖質を分解してアルコールする過程ですから、穀物文化の1つとして記述されています。

この本はとても学術的に正確な記述を心がけているような体裁なので、ぱっと見堅苦しい雰囲気がしているのですが、取り扱う内容がお米や小麦、すし、お酒と言った食物なので、読みながらとてもお腹が空いてくる、とても稀有な本だったという印象が残りました。

 

糖質を抜くことで見えてきた食物の基本

現在の一般的な食事といえば、日本食ではごはん、みそ汁、おかず、つけもの、と言ったパターンが多いかと思いますが、それ以外で外食をするとほぼ炭水化物だらけということが多くはないでしょうか。

炭水化物、つまりは糖質と食物繊維の合わさったものですが、これを食べると即エネルギーになるため血糖値が急上昇して幸福感を感じます。

その後、反動で血糖値が急減して、イライラしたり強烈な眠気が出たりと、気分も乱高下してしまうようになります。

穀物がここまで大切に、人類の主要な食物としての地位を確立したのは、もしかしたらそうした性質も関わっているのかもしれません。

一方で穀物を断つ、かなり厳し目の低糖質習慣を始めると、そうした血糖値の乱高下が起きず、エネルギー源も脂肪やタンパク質といったものから得られるように体が変わってきます。

そして人体は、農耕を始めるまでの数百万年の間は、穀物ではないものをその時その時で食べられるものを食べてきました。

だから穀物を食べない生活で、いろいろなものを満遍なく食べることの方が体が調子よくなるような実感が湧いてきます(私の個人的な感覚)。

穀物はエネルギー効率がよく、力を出したい時にはもちろん食べるのが有効です。

しかしそうしたちょっと立ち止まる気持ちをもたずに穀物を食べていると、おいしい上に血糖値も簡単に上がるものだから、脳がもっとほしいと要求するようになってきます。

すると糖質を絶えず求める意識となり、どんどん太ってしまうということになります。

今回、たまたまライザップを受けている町で古本市があり、そこで目にして手に入れた本書なのですが、自分の体を使って糖質を断ち、その状態で人類にとって最重要作物である穀物に関する歴史を学んだことは、なんだか不思議なご縁のようなものを感じました。

昔の狩猟採取生活のときのように、穀物中心ではない、いろいろな果実や野菜、肉、魚を満遍なく少しずつ食べ、穀物一極集中の依存状態を脱することで、世界の食糧問題も軽減されるのではないかなあと思うのです。

端的にいえば先進国と言われている国の人たちは穀物を食べ過ぎな上に捨てすぎです。

もっといろいろなものを少しずつにすれば、食べきれない分は保存もできるし他の人へ回すこともできるようになります。

糖質に脳を支配された状態から、自分の意思で食物を選び、健康にもなるし食糧問題も解決するような世界になるように、このような本の知識が広まり、みんな筋トレしつつ低糖質ダイエットに目覚めてくれたら素敵だなと思うのです。

 

生物から見た世界 ユクスキュル/クリサート 著 日高敏隆・羽田節子 訳

生物から見た世界 (岩波文庫)

大人向け教養絵本

本書は難しい古典で有名な「岩波文庫(青)」ですが、まえがきにも書いてある通り、新しい科学への入門書を目指して書かれたわけではないものですので、岩波の青シリーズにしては読みやすい一冊です。

ちょっと文字の多い、大人向けの絵本というような印象です。

原著のサブタイトルにも「見えない世界の絵本」とあるように、気軽に、人間以外の生物から見た世界を眺めてみましょうっていう雰囲気の本です。

そうは言ってもやはり歴史上「環境」と「環世界」の違いを初めて提示し、生物にとっての時間の進み方の違いや認識できる種類の刺激の違いによって捉えている世界の違いなど、そういう多角的な視点とも言える物の見方を提示した功績の大きな書物とも言えるでしょう。

手に取るのにややハードルが高い岩波の青いシリーズですが、読むと新しい視点や深遠なる学問の入口に立てる快感が病みつきになります。

 

種による”環世界”の違いを楽しむ本

本書ではマダニやウニ、カタツムリなどと言った人間とは外界を認知する感覚器官が著しくことなる生物が感じている世界を捉えようと、様々な実験やその刺激に対する反応、さらにはなぜその器官しかないのかなどの考察が紹介されています。

冒頭に紹介されているマダニに至っては、酪酸のにおいに反応し、動物の毛の有無を判断し、温かい皮膚に到達したら血を吸い始めるという、この単純な仕組みだけで生きています。

これだけの感覚器官だけしか持たないマダニにとっての世界は、酪酸のにおいと身体表面で感じる温度くらいしか外界を知る手立てがありません。

それでもしっかり子孫を残し、現在まで種が続いている事実を思うと、自然というのは本当に無駄な物がなく、必要であるからその形になっているのだと感動に似た衝撃を受けます。

他にもウニにとっての世界は上方に影になる物体がくると攻撃体勢を取るとか(雲や船が影になっても、それを敵と認識して棘を向ける)、カタツムリにとっての瞬間は4分の1秒だとか(人間は18分の1秒)、興味深い事実が次々と紹介されていきます。

また、本書が歴史に残す功績として、「環境」と「環世界」の違いがあります。

私たちは環境問題という言葉を使う時、それは人間の感覚器官によって認識できる周囲の状況の変化を問題としています。

この「人間の認識できる範囲の状態」が、人間にとっての「環世界」となります。

だから人間が今環境破壊をしていると言う場合、環境を変化させた後の状態の方が有利となる生物がいたとしたら、彼らにとっては環境破壊ではないことになります。

環境というのは生物種に関わらず、何がどうなっているのかを表す言葉であり、例えば地球には空気があり、その内訳は窒素が約8割、2割が酸素、そして残りその他に二酸化炭素やアルゴンなどが含まれる、などという事実としての状態です。

一方で生物にとって認識される環境、つまり環世界というのは、人間にとって呼吸に必要なのが20%程度の酸素で、快適な気温に保つのに必要な二酸化炭素はこの程度、というようなことです。

主観的に自分たちにとって必要な環境要素が、「環世界」というもの。

だから本書でも書かれていますが、蜂にとって重要なのは咲いている花であり、蕾には用がありません。

故に咲いている花か蕾かを判断する器官(目だったり触覚だったり)があり、花らしいものと蕾らしいものを区別する世界が環世界になります。

そこでもっと分解能の高い我々が実験として星形のものと球形のものを並べて蜂にみせたりすると、蜂にとっての環世界では星形のものを花だと判断して蜂が群がることになります。

より複雑な感覚器官を持つことによって、環境にある要素をより性格に把握し、活用することが容易になっていくのだろうと言うこともできそうです。

人間は人工的に環世界を拡張できる

このように人間以外の生き物が感じている世界を想像し、その反応を観察することによって、私たちが見ている世界も絶対的な物ではないかもしれないという思慮を持つことができます。

本書でも説明していますが、人間が生み出す様々な機械や測定器具は、人間の環世界を拡張するためのものであるということを忘れてはいけません。

空を飛んだり、自動車などでとんでもないスピードで移動したり、ということも環世界が本来の人間の能力では実現し得ないものです。

生身のまま飛行機や自動車の速度で移動したら、人体は耐えられず、感覚器官の性能が足りず周囲の状況も把握できません。

でもそれらの能力を拡張する機械を使いこなすための測定器具を開発し、それを人間の能力でも読み取ることができる情報に変換し、そしてその情報を活用して様々な能力を拡張していく、と言うことができます。

そこから学べることは、人間自体の能力は変わっておらず、機械を使いこなすことと自分の能力が強化されたという勘違いを起こさないようにすることだ、と思います。

自動車に乗ると性格が変わる人がいますが、もしかしたらそう言う人は、自分が強くなったように錯覚するから乱暴な運転をしてしまうのかもしれません。

これはほんの一例にすぎませんが、こういった本も知的な水準を高めてくれるという効果から見れば、自分たちの認識できる世界(環世界)を広げてくれる拡張アイテムである、ということもできそうです。

それによって「自分は物知りなのだ」と勘違いした人にならないように、そこだけは気をつけて謙虚に生き、さらなる知識の収集に励みたいですね。

 

獄中記 オスカー・ワイルド 著

獄中記 (角川文庫ソフィア)

獄中で内面を深める過程が垣間見える書

脳科学者の茂木健一郎氏が、その著作で何度も何度も本書をオススメするので、絶版本で
プレミアム価格だった本書を購入して読んでみました。

頭のいい人がなんどもなんども勧めるからには、かなり深遠なものが得られるのだろう、
そう勝手に解釈して2回ほど読みました。

というのも、一回読んだだけでは普通のちょっと感覚が鋭い人が買いた手紙かな、くらいの
印象しか残らなかったからです。

私はこの書簡をまとめたものを読むには、まだ人生経験や思索の深さが足りないのか。
正直、初めて読んだ時は良くわからなかったというのが感想です。

天才の描く文章はやっぱりこう、遠回りしている感じがするなぁ…な感覚。

背景を知ることで深まる理解

この本は、作家のオスカー・ワイルドが同性愛の罪(同性を好きになるだけで罪とかどんだけ
理不尽なのって思いますけどね)によって投獄された2年間に、その相手に宛てて買いた手紙
をまとめて本にしたもの、といいます。

私個人的に思うのが、素晴らしい繊細で独特の世界を表現する人って、マジョリティな価値観
とはズレたものを持っていることが多いなあということ。

オスカー・ワイルドという名前はしっているけど作品は読んだことない、という状態でしたが、
本書をきっかけにこの人について調べてみました。

情報ソースは、まずはウィキペディアですけどね。

すると、両親も文才に富み本人も若いうちから言語の習得に秀でていたりと、そもそもの基本
スペックの高さに目が止まります。

さらには日本の作家でワイルドの著作を訳した人たちも彼の文学を意識したりと、その影響は
意外と身近なところにまで及んでいる事がわかりました。

そして本書が書かれた背景としての、同性愛とそれによる投獄、釈放された後には失意のうち
に没するという人生。

まさに天才性をまとうにはぴったりの雰囲気な経歴だなあと思いました。

こういう人なら、『獄中記』で記述されてるような、

美しい肉体のためには歓びがあるが、美しい魂のためには苦痛がある

とか、

私は自分ひとりで完全に幸福であり得る。自由と花と書物と月とがあれば、誰が完全に幸福になりえないだろうか。

という文章が、なんだかスッと心に響いてくるんですね。

私がなんどもこの本を読み返しているっていうのもあるかもしれませんが。
獄中という閉鎖された空間において、自分の内面の探索をどんどん深めて、その先にある
「自分ひとりで完全に幸福であり得る」状態に気づいたのでは、と思います。

これは私(妄想癖がひどい)も体験的に共感できるところが大いにあり、自分を痛めつける事
自体が好きなのかと勘違いしてしまうのですが、実はその痛めつけている様に見える行為は、
それを乗り越えた先には「高みに達した自分」があると知っているからやっているのです。

上記の引用文から言えることは、オスカー・ワイルドほどの文才のある人物が、獄中に捕らえ
られるという状態を通じ、事故の内面で完結する完璧な幸福というものに到達した、その過程
を美しい文章で表現していることが、そもそも貴重で素晴らしい作品に昇華しているんだ、と
いうことなのかなあ…と思う事にしました。

そう思えば、この本がオススメされる理由として、とりあえず読む事で周囲の理不尽な状況に
関わらず、美しい魂のための苦痛を甘んじて受け入れ(=自分の魂が美しいと思い込める)、
そして自己完結型の内面の幸福を実現することができる、ということになります。

実際に幸福とは人によって感じ方も定義も異なりますが、金品や名誉などの獲得目的を突き詰
めていけば、結局「感情」を体験することにつながっている訳です。

だからこの本で書かれている様に、「自由と花と書物と月」があればいいとなり、
自由(精神を拘束することができない)と花(身近にある美しいもの)、書物(思索を促したり知識を増やす手段)、月(手の届かない理想的な風流さ的なもの?)があればいい、と
うことなのではなかろうか!と私は思い至りました。

幸福の形の1事例と見ていいのか

本書で記述されている内容というのは、非常に精神性の高いものにあたりますが、人が幸福
とかよりよく生きるとか、そういうものを実現するためのヒントになり得るものです。

しかしそこへ至る過程においては、複雑な事情があり単純に幸福ですねーとも言えないかな
という葛藤も含まれているかなという印象。

私のような凡人が、この偉大な作家が残したいわゆる本音のお手紙のないようについて
とやかく言う資格はないのかもしれません。

しかしながら本書を読んで(初めは意味不明でしたが)、よくよく著者や著者を取り巻く環境
や当時の時代背景、そして文章そのものの書かれた背景を知っていくと、美的に鈍感な私でも
どうやら精神面での幸福というのは自分だけでも完結しうるもののようだ、という朧げながら
も形を掴めそうだなあと思える様になってきました。

一点の疑問もなく幸福である、というには厳しいものではありますが、幸福の本質とは、を
考える時に、その「精神的な充足感」が主体であることから、本書は幸福という状態の一形態
という事もできるのかなあと思います。

なんか薄っぺらいなぁ…と自分でも感じますが、もっと深遠な、私が表現し得ないような
深い深い読み解き方をする読書家の方々がたくさんいることを思うと、より一層読書習慣に
コミットしようと思えますね。

鳥!驚異の知能 道具を作り、心を読み、確率を理解する ジェニファー・アッカーマン 著

鳥! 驚異の知能 道具をつくり、心を読み、確率を理解する (ブルーバックス)

〈鳥頭〉の反撃ー驚異の知能を持つ鳥

「鳥頭」とは、三歩歩いたら忘れると言われる鶏のように、鳥の小さな脳やせわしなく動き
回る様子などから「愚か者」「落ち着きのない者」という意味合いで使われる言葉です。

つまり鳥はあんまりお利口さんではない…そんな印象が昔から人々の間には共有されて
おりました。

本書は、そんなバカにされていた鳥の知能について、新たな知見をもたらす一冊です。

哺乳潤の脳がHDD(ハードディスク)のようなものだとすると、
鳥の脳はSSD(ソリッドステートドライブ)のように仕組みが違います。

HDDとSSDでは同じ記録容量であっても、それに対する物理的な大きさも異なります。

同様に、「人間のような大きな脳=知能が高い」「鳥の脳は小さい=知能が低い」という風に
解釈をするのではなく、脳の仕組みが異なるだけだといいます。

この本では、鳥に対する我々の認識を改めるに値する新事実が、次々と挙げられていきます。

恐竜の直接の子孫であるとか、道具を使っていろいろ工夫をするだとか、さえずりにも方言が
あり、その地方の群(同種の別個体たち)から学んでいるのだ、ということなどです。

「ブルーバックス」という自然科学に関する新書型式の本ですので、専門的な内容が書かれて
はいますが、入門者向けに優しく書かれている本なので、鳥について詳しく知りたい方や、
単純に鳥が好きと言う方が読まれると、かなり深い学びへと繋がる本だといえます。

 

自然が生んだもう一つの「賢い脳」に注目すると…

上述のように、鳥の脳は非常に小さいが性能としては人間に匹敵するのでは、と言うくらいに
賢い知能を発揮します。

本書が指摘する鳥と人間の共通点は、

  • 言葉で交流する
  • 道具を使い課題を解決する
  • 他者から学習し、文化を築き、異性に歌を捧げる
  • 二足歩行
  • 昼行性
  • 知的

などが挙げられます。
むしろ人間よりも優秀な部分も多いのかもしれません。
人間が既に失ってしまった能力を、鳥の脳はいまだ残している可能性もあります。

鳥について深く知ることは、人間への理解を深める助けにもなりうるのだと言えます。
また、こうした高度な知能を持つことが明らかになってくると、それぞれの個体差にも注目
されるようになります。

本書での例はスズメの行動特性についてで、スズメは基本的には好奇心旺盛な種のように見え
ていますが、それは全体の群れの挙動に過ぎません。

人間でも集団になると異常とも言える行動へと発展することがありますから、他の生き物で
そういうことが起こっても自然なことなのでしょう。

スズメの例では好奇心が特に旺盛な個体と反対に臆病な個体の両方がいて、異なる行動特性を
持つ個体が混在することによって全滅を避けている、という巧妙な戦略が見て取れます。

これはスズメの脳がそうさせている、というわけではないのかもしれません。

しかし脳が高度に発達すると、それぞれの個体で独自に思考し行動を決めていくと言うことが
起こってくるので、これもまた鳥の知能が高度に発達しているという証でしょう。

 

鳥そのものがとても愛おしくなる本

この本を読んだ後に山や深い森へと出かけていくと、鳥のさえずりに注意が向きます。

同じ種(例えばうぐいす)であっても、個体の違いによってタイミングやさえずりの音の高低
が異なっていることに、注意深く聞いていると気づくことができます。

さらにそのような体験を重ねていくと、地域ごとに「訛り」があるようにも感じられます。
こうした違いはバードウォッチングをされている方にとっては周知の事実なのかもしれません。

この本を読むことでまず知識としての個体差、そしてさえずりなどのコミュニケーション方法
は生得的なものではなく、後天的に学び取って身につけていることを知ることができます。
その上で実際の鳥たちの生活を観察することで、深く納得する学びにつながってきます。

鳥のさえずりを聞きながらゆったりと過ごす時間の豊かさを、この本はさらに深めてくれる本
であることは間違いありません。

もう鳥のことを見ても、アホっぽいなあとかノータリンだとか思うことはないでしょうね。
私たちよりも高度な”思考”をしているかもしれない街角のカラスにさえも、敬意を持って眺め
てしまうほどに、鳥たちの生態にハマってしまいそうです。

奇跡のバナナ 田中節三 著

奇跡のバナナ 田中節三 著

日本でも育つバナナを生み出した

この本の著者、田中節三氏が長年の研究の末に編み出した「凍結解凍覚醒法」によって、
南国でしか育たないはずのバナナ、しかもすでに絶滅したとも言われるかつての品種である
グロス・ミッチェル種を日本でも収穫できるようにした、その過程を紹介する本。

厳密に言うと品種改良でもなく遺伝子操作でもない、その種が持つ潜在能力を引き出す方法で
バナナだけでなくパパイヤでも従来の形とは大幅に異なる個体を作り出したと言います。

著者の田中氏がおそらくぶっ飛んだ発明家タイプのような方なので、すんなりと理解する事が
難しいかもしれません。

ただし実際に田中氏が生み出したバナナが「奇跡のバナナ」(岡山では「もんげーバナナ」)
として売られているとのこと。

この技術は寒冷地でも植物が育つように、その植物が氷河期を乗り越えた時に使っていた能力
を引き出すことで耐寒性を高めるもの。
今後の展開としてシベリアを一大農地へと転換する…と言う壮大な計画もあるそうな。

実現したらとんでもないことになりますね。
そしてこの技術を応用したら国内の農業もさらに付加価値が増して、儲かる産業になるかも?

 

バナナ好きなら一度は憧れる「グロスミッチェル種」。

1950年代に流行した「パナマ病」と言う病気(カビ)により全滅したグロスミッチェル種。
バナナといえばこの種、と言われたグロスミッチェル種は全滅し、現在流通している品種は、
キャベンディッシュ種に一新されています。

一部、生き残りのグロスミッチェルが稀に、かなり高額で取引されているようです。

本書のバナナもグロスミッチェル、しかも著者が編み出した「凍結解凍覚醒法」で、さらに
甘みが増して、皮ごと食べられるようになっています。

グロスミッチェルそのものが”高級品”だった頃のバナナですから、そのままで今のバナナより
かなり美味しいとされます。

そして「凍結解凍覚醒法」で耐寒性を獲得したバナナは、さらに美味しくなっているといい
ますから、その美味しさはもうとんでもないレベル…と期待が膨らみます。

↑鹿児島県産「神バナナ」

 

↑岡山県産「おかやまバナナ」

 

Amazonで検索すると、いくつかべらぼうに高額なバナナが見つかります。
そのうち「凍結解凍覚醒法」 で作られているのが、【皮まで食べられる】と謳っているもの。

日本で流通しているバナナの99%以上が外国産(フィリピン産やエクアドル産が多い)で、
例のパナマ病(現在のバナナも絶滅の危機に瀕している)や他の害虫を防ぐために大量の農薬を使用しており、皮は食べられません。
※バナナは株分け(クローンのようなもの)で増えるため、一つの病気で全滅します。

大量に流通しているバナナは「キャベンディッシュ種」であり、皮も食べられなくはないです
が、厚くて繊維質が目立って食べられたものでは無いようです。
なお、Amazonで注文しても果実の成熟加減によって出荷日が遅れることがあるようです。

まだまだ生産量が少ないので、常に食べられる状態のバナナがあるわけでは無い、というのが
また余計に食べたくなる気持ちを掻き立てます。

 

著者について

田中節三(たなか・せつぞう)

1949年、岡山県生まれ。
農業法人株式会社「D&Tファーム」取締役技術責任者。中学卒業後、古紙回収・中古船販売業などで成功を収める。植物栽培が趣味であったことから、バナナの栽培法を研究。40年以上という年月をかけて「凍結解凍覚醒法」を開発し、冬は氷点下を記録する岡山県で、日本産バナナを栽培することに初めて成功。その技術が、国内外から大きな注目を集めている。

本書後半で著者自身の半生について少し言及していますが、小中学校にはほとんど行かずに、
自分が興味を持ったことについてはとことん調べてしまうという性質があると言っています。

また逆に人から何かを教わるのが非常に苦手であり、そのため小学校を三日坊主で行かなく
なってしまったといいます。破天荒過ぎます。

さらには興味を持って見たものは、写真のように覚えていられるとも言っており、多くの凡人
とはものの見方がそもそも違うようです。

結局世の中を変えてしまうほどの技術を生み出すのは、こうした枠にはまらない人なんだな、
という思いも強くなった本でした。

 

読後感、感想など

この本、読む前には品種改良とかハウス栽培の最新技術などの、従来のバナナをなんとか工夫
して岡山で作りました、的なものを予想していました。
私もバナナが好きで、あわよくば自宅で栽培できたらいいなと思って読みました。

ところがこの本のバナナは、現在流通しているキャベンディッシュではなく、すでにほぼ絶滅
したと言われるグロスミッチェルだという。

しかも品種改良や遺伝子操作、育成環境の改善ではなく、バナナそのものの眠っているDNAを
覚醒させて耐寒性を持たせているというところに、始めは「?」がたくさんでした。

理屈としては地球上のあらゆる生物は氷河期を生き抜いてきたから今あるわけですが、ならば
あらゆる生き物、植物は寒いところでも生きていけるはずだ、という発想にたどり着くのが、
やはり”天才性”というかその他大勢の人との違いなのかなと思います。

そして出来るはずだ、という確信というか出来る前提で40年も粘って研究し続けたという、
凄まじいまでの継続性も、凡人には到底叶わないところでしょう。

普通に考えて、熱帯の植物であるバナナがバナナにとっては寒冷な日本で育つわけない。

一部、温泉や地熱を使って熱帯の気候を再現している場所はありますが、バナナが寒さに耐え
生育するケースなんて考えれらなかったのです。

ところが著者は日本でバナナを収穫し販売するまでをやってのけた。
しかも日本を始め世界中の農業を変えてしまう可能性を秘めた技術で、です(儲かりそう)。

農業への興味があまり強くないせいか、この技術が広まりつつあることも知りませんでした。
本書や公式ホームページによれば、かなりメディア露出も増えているようです。
早くスーパーでも気軽に買えるくらいポピュラーな存在になってほしいものです。

 

なお、このバナナを生産するビジネスは、1株3万円で購入してそこから収穫されたバナナを
30万円で買い取る契約をするそうです。
1ヘクタールから購入でき、6000万円からこのバナナの栽培に参入可能です。

バナナが確実に収穫で切るよう環境を整えられれば…すごいことになりそうです。

 

美貌のひと 中野京子 著

美貌のひと 中野京子 著

絵画を切り口に「美とは何か」を追求した本

本書『美貌のひと』は、同時代人や後世の人間が、色々な観点から美しいと評価した絵が
掲載されています。

絵というのは本当に不思議というか多様な面を持っているな、と感じたのが、見る人によって
同じ絵を素晴らしく賞賛したり、また別の人は酷い絵だとこき下ろしたりすること。

写真だったら、多少の好みの違いはあっても、美しいものを醜いと感じたり、そのまた逆の事
は起こりにくいんじゃないか、とも思いました。

また、絵を描くときに対象を捉える視点の違いによる表現方法も興味深く、例えば女性画家が
描く女性の絵と、男性画家が描く女性の絵では観点がまるで異なる(画家個々の特徴もありそ
うですが)という点。

女性が描くとリアルで男らしいというか、性的な魅力についての誇張など一切なく、純粋に絵
として美しいと思うのに対して、男性画家による女性像はどこかエロティックな要素が含まれ
ているような印象だったりします。

そのような色々な「目」による相違を楽しむことも、絵画鑑賞の一つの楽しみです。

 

著者について

このようなユニークというか、単なる本読みにとってはとても刺激的な一冊を書かれた著者に
ついて確認しておきましょう。本書奥付より引用します。

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、独文学者。西洋の歴史や芸術に関する広範な知識をもとに、絵画エッセイや歴史解説書を多数発表。新聞や雑誌に連載を持つほか、テレビの美術番組に出演するなど幅広く活躍。2017年「怖い絵展」特別監修者。
著書に「怖い絵」シリーズ(角川文庫)、「名画の謎」シリーズ(文春文庫)、『ハプスブルク家12の物語』(光文社新書)、『はじめてのルーヴル』(集英社文庫)、『別冊NHK100分de名著 シンデレラ』(NHK出版)、『ART GALLERY第5巻 ヌード』(集英社)など多数。
著者ブログ「花つむひとの部屋」https://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006

絵画に関する本ですから、芸大出身とかご自身が画家とかなのかなと思っていましたが、本を
書くということからも、文学を専門とする方ということでした。

文学作品も芸術分野の一つですから、表現する方法は文章と絵画と異なりますが、その表現を
する対象物としては、この世界に存在するものとしての共通性があるのかもしれません。

著者ならではの視点で、この本にある絵とその絵にまつわる「美」のエピソードが、とても
興味深く、一気読みしてしまうような本に仕上がっています。

 

本の内容について

肖像40枚の奥に潜む、秘められたドラマ
美が招くのは幸運か破滅か

本書の帯にはこのように書かれています。

この本に載っている40枚の肖像画の背景にある物語はどれも刺激的で、おそらく一瞬で情景を
焼き付ける写真のようなものでは形成され得るものだろうと思います。

この中で特に刺さった絵について紹介します。

P.24 ユーディトと侍女(アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキ)

これは女性が書いた女性像の一つです。
とてもリアルで、雄々しいというか、その場の緊迫感がとても伝わってくる迫力があります。

この絵が印象的だったのは、高貴な女性と庶民的な侍女という二人の女性が描かれており、
その二人が同じ人間であるという様子がありありと感じられたためです。

男性画家が描く女性像は、私の感覚では「可愛らしさ」「可憐さ」などがやや誇張されている
ような印象を受けるのに対して、この絵はまさに敵将を暗殺をしてきたばかりという、緊迫感
や言い表すのが難しいですが、この絵の人物の汗の匂いや体臭までもが感じられるというか、
目の前に迫ってくる迫力感があったのです。

絵の感じ方というのは個々人で異なると思いますが、こういう迫力のある絵というのは、対象
のリアルさを精巧に描く、細部に技術が光る女性画家ならではと感じたのでした。

P.104 醜い公爵夫人(クエンティン・マサイス)
美とは何か?を突き詰めるのにとてもいい絵。タイトルに「醜い」と入っているくらいの、
醜さのお手本、醜さの要素全部乗せという感じの絵です。

かなりインパクトがあり、本文を読む前にも色々妄想してしまいます。

この絵のモデルになった人は、自分はまだイケると思って若作りをしているのか、または
自分のこの姿を見ても美しいと思っているのか、などなど。

この絵はモデルを元に描いたというよりは、美しさの条件を明らかにするために、あえて
醜さとは?というものの典型として描かれているようです。

本書でもこの絵の醜さを反転させた場合の「美しい公爵夫人とは?」を考えてみているが、
文章の上でだけならば、きっとお手本のような魅力的な女性像が浮かび上がるのだろうなあ
とイメージができそうです。

こういう敢えて逆張りするような発想、かなり好きです。
そしてこの絵があるからこそ、典型的な美の条件というものも明らかになります。

 

P.113 シャネル(マリー・ローランサン)

水彩画でシャネルその人が背負ってきた人生を表すかのような印象の絵ですが、シャネル本人
は似ていないと断じて画家に返してしまったそうです。

シャネルといえば「シャネルの5番」で有名になったあのシャネルですが、この人自体も、
人物としては非常に興味深い方です。

ファッションが社交界の身だしなみとして扱われていたものから、芸術の域へと引き上げたと
言っても過言ではありません。

今でこそなんか高級なブランドのイメージでゴテゴテしていますが、この人の成し遂げた事や
その時代背景も含めて考えた時には、まさに英雄と言ってもいいくらいです。

今の状況からは想像を絶するほど不利な中での、女性が社会で活躍するということをやって
のけた、凄まじいまでの女性でもあります。

 

P.134 リスト(アンリ・レーマン)

言わずと知れた天才ピアニストのフランツ・リスト。

今で言うところのアイドルみたいな熱狂を巻き起こしたピアニストとして有名ですが、この人
はお金をどんどん寄付して蓄財しなかった、と言う面でも有名です。
どれだけできた人なんでしょうね。

そんなリストの若い頃の肖像画です。よくリストの紹介で使われる絵でした。
絵そのものよりリストが好きなので、印象に残っていると言ったほうがいいかもしれません。

 

P.144 サラ・ベルナール(アルフォンス・マリア・ミュシャ)

ミュシャの絵は今のメデイア界隈でも使われていそうな雰囲気の絵です。

初めてミュシャの絵を見たときには、これが昔の人が描いたものだとは思えず、CGか何かを
使って描いたのかな?くらいに思うような絵でした。
「精巧」と言う表現がぴったり当てはるかのよう。

本作『サラ・ベルナール』と言う女優を描いた絵ですが、たまたまクリスマス休暇で他の絵描き
が誰もいない中、試しに無名のミュシャに描かせたら超うまかった、と言う有名なエピソード
の絵でもあります。
こう言うことってあるんですね。

そんな偶然が味方して、一挙に世に出てきたミュシャですが、現在の価値観を持つ私でも、
その絵がきれいでわかりやすいと思います。

宣伝用ポスターとしての絵だから、と言うのもありそうですが、行為センスが光るデザインが
できるのって、やっぱり美しさをどう見せるかの視点が飛び抜けているのでしょうね。

 

読後感、感想

この本に出ている絵は(「醜い〜」の1枚を除いて)どれもが皆美しい人物を描いています。

特に印象的だったものを上述のように挙げてみましたが、この他の絵はどれも強烈な個性が
背景にあるのだと言うことです。

基本的に名画として後世に残ると言うことは、それだけの絵画自体の価値もさることながら、
絵が描かれるまでの事情や描かれた背景にも強烈なエピソードがあったと言うことです。

ここには挙げませんでしたが、ピカソの絵のエピソードやタマラ・ド・レンピッカと言った、
その人の人生自体が興味深いエピソードに彩られていることも多くあります。

芸術家は一般大衆よりも感性が鋭く、敏感であるが故に波乱に満ちているのか、あるいは
先に波乱の人生で揉まれた結果として素晴らしい作品を残しているのか。

どちらが先なのかわかりませんが、何れにしても厳しい人生の中でも光り輝く成果をモノに
している点で、尊敬したくなる人物ばかりだと思います。

本書のような本が増えて、広く人々に読まれるようになって芸術への関心が高まって行くと、
鑑賞する側の人間も感性が磨かれていくでしょう。

そうしたら、もしかしたら社会に漂う閉塞感のようなものも晴れてくるかもしれませんね。
ちょっと端に触れただけでこんな事言うのもおこがましいですが、芸術に触れる事で心が
豊かになると言う感覚を、この本は教えてくれたと言えるでしょう。

イギリス王家12の物語 名画で読み解く  中野京子 著

イギリス王家12の物語 名画で読み解く  中野京子 著

視覚(絵)から理解する歴史上の物語

絵画をメインテーマとして、その背景にある物語を解説して絵画そのものを深く味わう、
歴史ファンからすると斬新な歴史の楽しみ方を教えてくれる本。

芸術、特に絵画に関心が深い方からしても、その絵画の味わい方としても歴史上の出来事を
絵が描かれた背景と合わせて解説されており、さらに踏み込んだ鑑賞ができるのでは?

本来なら写真がない時代の記録手段としても機能していたが絵画が、歴史上の出来事と無関係
な訳がないのですが、現在の学問の専門分化による弊害で、なかなか美術分野と歴史分野が、
相互に関連するものだと認識しにくくなっていました。

そんな私にとっても絵と歴史上の出来事を絡めて説明してくれる本書は、新しい世界の味わい
方を教えてくれる、斬新な一冊となりました。

シリーズ物が出ているようなので、それらの本も自分の歴史認識の答えあわせ的な意味合いで
挑戦したいと思うようになりました。

 

イギリス王家にまつわる12枚の絵画

本書には序章も含めて13枚の扉絵と、各章のエピソードを解説する際により理解を助ける絵が
+αで掲載されています。

扉絵でその章を象徴する絵を見せて、先入観がない状態で鑑賞できるのが素晴らしいです。

その後、著者による絵自体の解説というか、細々とした細工や時代を風刺するメッセージ、
絵が描かれた表向きの理由と画家が込めたメッセージを読み解いていきます。

芸術の鑑賞と学校教育

日本の美術教育では、そういった絵の背景にある事情を知らないよりはいいけれど、自分の
感じるままに鑑賞することを良しとしている風潮があります。

もちろんそうした絵画の楽しみ方も一つの方法ですし、堅苦しくなく、力を抜いて美しいもの
を味わう豊かさも私は大切にしたいですし、そのようにしています。

しかしもう一歩踏み込んで、その絵自体の知識を入れ込み、さらには関連する歴史上の事件や
関連する人物、その絵が描かれるに至った事情などを知った上で、さらに絵自体に込められて
いるメッセージ性を読み取るという鑑賞方法は、かなりディープな絵画鑑賞の世界へと誘う、
かなり刺激的な体験となっていきます。

こんな鑑賞方法なら、絵画を主観的に批評するわけではないので好みもあまり関係しません。

事実(歴史上の出来事)やその背景にある様々な説や解釈を、確定事項ではない「説」や
「解釈」として学校教育で教えることができたら、もっと多くの人が文化に対する意識が深く
なっていくのではないのかな、と思うのでした。

深く複雑で味わい深い絵画の鑑賞ではありますが、それに対して単純な面白さ、愉しさがそこ
には厳然と存在しているのだということを広く伝えたいです。

本書に掲載されている扉絵としての作品

詳しい解説は本文を読んでいただくとして、この本に載っている13枚の扉絵のタイトルを引用
しておきます。
表紙の『レディ・ジェーン・グレイの処刑』はややわかりやすいですが、王家にまつわる物語は
血なまぐさいものが多いなあという印象です。
しかし絵自体はあまりそれを感じさせず、背景を読み解いて初めて衝撃が走ります。

薔薇戦争後からエリザベス一世まで(第1部)

序章『ロンドン塔の王子たち』ジョン・エバット・ミレイ(1878年)
第1部 テューダー家
第1章 ハンス・ホルバイン『大使たち』
第2章 アントニス・モル『メアリ一世像』
第3章 アイザック・オリヴァー『エリザベス一世の虹の肖像画』

日本でいう所のイギリスという国の王は、初めからイギリス土着の人間ではないという事が
ヨーロッパらしい王家、という印象を受けます。
第一部では薔薇戦争後に主導権を取ったテューダー家にまつわる王たちの絵。
一見するとただの人物画です。
しかしひとたびその歴史的背景を知ってしまうと、なぜそこに描かれている人物がそういう
表情なのか、その服装なのか、その場面なのかが次第に浮き上がってきます。

スコットランドから来た王様(第2部)

第2部 ステュアート家
第4章 ジョン・ギルバート『ジェイムズ王の前のガイ・フォークス』
第5章 ポール・ドラローシュ『チャールズ一世の遺体を見るクロムウェル』
第6章 ジョン・マイケル・ライト『チャールズ二世』

第2部はジェイムズ一世から始まるステュアート家の物語。
家名は変わっても、テューダー家の開祖、ヘンリー七世とも血の繋がりがある一門である所が
強かというか、柔軟性がある血統です。

後年の第一次世界大戦が「いとこたちの戦争」と呼ばれるように、ヨーロッパ諸国はその王室
同士がみんな姻戚関係で結ばれている、という血統のプールみたいになってるんですね。

この本でも説明していますが、本当に遠い親戚でみんな繋がっていてややこしいのなんの。

ドイツ人のイギリス王から現在へ

第3部 ハノーヴァー家
第7章 ウィリアム・ホガース『南海泡沫事件』
第8章 ウィリアム・ビーチー『ジョージ三世』
第9章 ウィリアム・ターナー『奴隷船』
第10章 フランツ・ヴィンターハルター『ヴィクトリアの家族』
第11章 フランツ・ヴィンターハルター『エドワード王子』
第12章 ジョン・ラヴェリ『バッキンガム宮殿のロイヤルファミリー』

第3部ではハノーヴァー家です。
ここでは「ハノーヴァー家」となっていますが、この血統は現在の英王室まで続いているもの
で、途中「サクス・コバーク・ゴーダ」となり、その後国内の世論に配慮して「ウィンザー」の
家名に変わっていってます。

しかし血統はハノーヴァー家から続いているので、この家名のままになっています。
というか、最初のテューダー家から厳密に言えば血統がわかっている上で繋がっているのが、
イギリス王家であり、この本を読んで初めてその流れが整理できたという面もあります。

他のヨーロッパの王家のように家名にこだわって断絶することがなく、柔軟に名前を変えたり
女性が王になったりと、血統のセーフティネットに加えて柔軟な運用がなされています。

著者も言及していますが、歴代の王家の人たちが不仲であり、しかし柔軟にしぶとく生き残っ
てきたイギリスで現在でも王室が残り、そのほかの家名を厳密に守ろうとした王家がなくなり
共和制に移行いているというのは、何か不思議な感じがします。

 

読後感、感想

本書が絵を題材とするものだけに、写真が残るようになった時代のニコライ二世とジョージ五
世が双子のように似ているとか、二十世紀に近づくにつれヨーロッパ中が親戚になってしまい
敵を見つけることができなくなっていく、そして身内で奪い合うしかなくなっていくという、
歴史的な流れも、絵というビジュアルを通して追っていくと直にわかることもあるのだな、と
全く新しい歴史・芸術の味わい方を体験できた一冊でした。

系図を丁寧に追ってこことここが親戚なのか、ということは…なんてやらずに、似ている別の
国の王を並べて見たら、超似ている、という事実を見るだけで、ああこの人たちは親戚なんだ
とわかってしまう。

文字での詳細な記述では、情報としては正確に伝わるかもしれませんが、その伝達できる情報
密度は非常に低い、効率の悪いものなのかもしれません。

デジタル記録媒体が無く印刷も手間がかかる時代に、絵画といういわば右脳的な情報処理を
記録の方法として採用していた(意図してなのかは不明ですが)ことは、こうして見ると、
確かに最も理にかなった方法だったのかもしれないと思うのです。

写真や通信技術が未発達だったからこそ、人間の深い部分に共鳴する「芸術作品」としての
記録の残滓が、今の私たちの心に響いてくるのも不思議な感覚です。

ロウソクの科学 ファラデー 著

ロウソクの科学 ファラデー 著

クルックスが記録した、ファラデーの講演記録

本書は1861年のクリスマス休暇にロンドンの王立研究所で行われた連続6回講演の記録。
その講演者がファラデー、書記がクルックスだったといいますが、凄まじい顔触れ。

クルックスとは、陰極線の観察に使う「クルックス管」の発明で有名ですが、
ほかにも物理学や化学他の幅広い分野での功績がある偉大な科学者です。

そんな偉大な科学者が子どもたちに向けて、
ロウソクという身近な素材を利用して行った講演の記録が本書です。

日常と科学の繋がり、宇宙の全てが繋がっていることを理解してもらうための講演。
今でも市民講座とか小中学校への出張講座でやったらウケそうな内容です。

 

そしてさらには本書が長年に渡り読み継がれてきた理由として、
難しいことをわかりやすい言葉に言い換えて説明していることも大きな理由と
言えるのではないかと思います。

私も高校入学時の課題図書として買わされた記憶がありますが、
当時の知識でも本書の言っている内容は理解することができました。

その意味する背景までは理解できませんでしたけど。

そこまで至るには、やはりそれなりの人生経験も必要なのかなと思います。

教育の本としても読める「ロウソクの化学」

本書が教育の本としても読めるな、と感じたのは、
私自身も教員として7年間従事した経験があるからかもしれません。

こういう古典と言われる名著は、シンプルな記述であるが故に読み手のリソースによっては
解釈は全く変わってくるから不思議で面白いものです。

教育者としてのファラデーが話したものとして本書を読めば、彼は教わる側の
子どもたちの視点で物事を話そうと、序盤から心がけていることが受け取れます。

決して権威や圧倒的な知識を盾にしようとしないし、難しい言葉や専門用語を使って
誤魔化すということがありません。

このような姿勢こそが本来あるべき教育者の姿なのだろうと大いに反省をしたものです。

それにファラデーが行う講演は、きっと面白くてついつい聞き入ってしまうであろう
雰囲気だったことがヒシヒシと伝わってくるのです。

そんな楽しそうな雰囲気になるのは、ファラデー自身が化学を始めとした自然科学をとても
楽しんでいたこと、絶えず自然現象への強い興味を持ち続けていたことが挙げられます。

研究対象が面白くて仕方がない、というある種オタク的な要素もあったかもしれません。

今でこそ多少は認識が変わってきましたが、まだまだ特定分野に異常に詳しいオタクは
やや奇異の目で見られがちでもあります。

本書が広く読まれることやノーベル賞受賞をきっかけに、さらに受容しやすい雰囲気が
広がってくれるといいなあと思います。

そうすれば、日本でもより高度な専門家たちが生まれてくる土壌が出来上がるのではないか、
とも思っています。

一つのことに集中して夢中で取り組むというのは、本当に楽しくて時間が経つのを忘れて
しまうものです。そのくらい夢中になっても受容される雰囲気が広まることを願っています。
それが結果的に幸福の総量が増える社会にもなり得ると思います。

 

本書の版などについて

私が読んだ「ロウソクの化学」は、初版が昭和37年の物なので、
翻訳の日本語もやや古い感じがしています。

それでも読んでいると本に引き込まれてしまう内容なのは、やはりファラデーの講演のうまさ
と書記のクルックスの的確な記録の賜物なのだろうな、と思います。

ノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏が、本書が「化学に興味を持つきっかけとなった本」
として紹介した後にすごく売れたそうです。

そのためかわかりませんが、現在出ているものはやや値段が上がっていました。

私が読んだ昭和37年版の方が安かったので、リンクは安い方で貼りました。
数ある翻訳の中でも読みやすいと言われている「角川文庫」の訳です。

少し古い表現が気になるかもしれない

内容としては思いっきり理系、それも化学ですが、講演会の出席者が少年少女であり、
本書の想定読者層も中高生であろうことから、そんなに構えずに読むこともできる、
貴重な理系本であるとも言えるでしょう。

裏表紙のあらすじにも、

たった一本のロウソクをめぐりながら、ファラデーはその種類、製法、燃焼、生成物質を語ることによって、自然との深い交りを伝えようとする。ファラデーは貧しい鍛冶屋の子供に生まれたが、苦労して一大化学者になった。
少年少女を愛する彼が、慈父の愛をもって語ったこの公演記録は、その故に読者の胸を打つものである。

-本書裏表紙のあらすじより引用-

例えば「少年少女」と言った言い回しは、今ではあんまり使いませんが、本書ではいまだに使われています。

やや古い時代の日本語の言い回しで翻訳がなされているので、若い人にとっては
少し読み応えがある本になっているかもしれません。

その場合には新しい版(やや価格は上がりますが)があるので、
そちらを改めて読んでもらえばいいと思います。

購入する前に書店などで少し中身を読んで見るといいですね。

しかし少々古いけど古語とまではいかない表現であえて読むと、昔のイギリスの講演の訳を
読んでいるんだ、という雰囲気は味わいやすいかもしれませんね。
これはやや玄人読書向けではありますが。

 

理系分野に興味ありなら必読の書

名だたる科学者たちが口を揃えてオススメする「ロウソクの化学」。

私はオタク養成所とも言っても過言ではない「高専」出身ですが、
そこの教官たちも本書を勧めていた記憶があります。本当に色んな教官が勧めてきます。

その理由として、本書は初めの一歩として興味を持つには最適な本だからということです。
そして実際に、ノーベル賞受賞者が本書が化学に興味を持つきっかけだったと言っています。

そう思うと、今は理系が苦手と思っている人でも希望が見えてきませんか?

数学が苦手だから文系に行った、というケースは非常に勿体無いと思います。
理系だから数学ができないといけない、というのは、
日本の文理選択制の弊害ではないかと私は思っています。

学問を文系と理系に分けることがナンセンスなんです。

本書はそう言った意味でも新しい視点を提供し得る名誉と言えるでしょうね。
教育(文系)の知見を得ることもできる化学(理系)の本。

まだ学問が専門分化仕切っていない時代のお話だからこそ、本来の「知の探求」の形が
色濃く残っている、そんな風に思います。

数学が苦手だけど自然現象に興味がある、
という人全員に、ぜひ手にとっていただきたい一冊です。

 

 

制作(上・下巻) エミール・ゾラ 著

制作(上・下巻) エミール・ゾラ著

本作はエミール・ゾラによる『ルゴン・マッカール叢書』と言われるシリーズ物の14巻という位置付けの小説です。ゾラ自身が「第二帝政時代における一家族の自然的・社会的物語」という副題をつけた作品群の一つで、主人公のクロード・ランティエもマッカール一族との血縁関係はあるようです。
本作下巻の巻末にある「解説」にて、
彼は『居酒屋』のヒロインであるジェルヴェーズ・マッカールと愛人オーギュスト・ランティエの間に生まれた長男であり、有名なナナ(アンナ・クーポー)の異父兄である。とはいえ、当作品は「居酒屋』や『ナナ』とは何ら直接的関連がない。独立した芸術界小説とみてよい。強いて共通点はといえば、主人公がいずれも悲劇的な死で終わるというぐらいだ。
このように説明されています。
作品上はほぼ関連はないと言っても間違いなさそうです。
何よりも本作がルゴン・マッカール叢書中の他の作品と異なる要素として、エミール・ゾラ自身の自伝的小説であるということもあります。
シリーズ中でも異彩を放っていると言えるでしょう。
また、作中でゾラ自身がモデルとなっているであろうサンドースという人物が、ルゴン・マッカール叢書を制作する計画にも思える構想を述べていることもあります。
この他、主人公のクロードはゾラと同郷のポール・スザンヌを、ボングランはエドゥアール・マネをモデルにしているのかと思うような描写がなされています。
しかし本作「解説」では、
ゾラがどのように画家クロードを描いているか。
「劇的に脚色したマネかセザンヌ、どちらかといえばセザンヌに近い人物」
作品準備段階でゾラがクロードについて記したメモである。
特に作品前半のクロードは、ゾラが親しく交わったセザンヌとマネを複合して作られたことは作品を読めば一目瞭然である。
というように、クロードの中にスザンヌとマネが存在するような人物として描かれています。
解説を読んだ後に本文を再読すると、このような意識を持って読むことができるので1回目とはまた異なる印象を受けます。
さらには本作品が、どのような意図で書かれたのかということも知っておくと、さらに作品を深く読み込めると思います。
本書の「解説」より再び引用します。
クロード・ランティエを通して、芸術家の自然との闘い、作品創造の努力、肉体を与え生命を生み出すための血と涙の努力を描きたい。それは常に真実との闘いの連続であり、しかも常に打ち負かされる天使との格闘である。つまり私はこの作品で、私自身の内密な創造の営み、絶え間なく苦しい出産を語るだろう。私はこの主題をクロードの悲劇の形で拡大誇張して示そう。クロードは決して満足することができず、自らの天賦の才実現できないことに激昂し、さいごには実現できない作品の前で自殺するのである。
つまりゾラは、自らの体験から芸術家の「作品創造の苦しみ」を中心主題とし、それを画家クロードの悲劇で物語ることを意図した。
まさに芸術家の創作の苦しみを表現するために、クロードが徹底的に苦しんだ挙句に自殺する、という流れがそもそも意図されています。
クロード自身が作品の前で自殺することも、作品を生きているうちに完成させられない、天才的な画家を象徴的に表現しているような印象を受けました。

天才は認められなくても天才なのか

本作はクロードという天賦の才を持ちながらその作品が認められない画家が主人公です。
その才能の豊かさは仲間内のみならず、すでに評価され名声を得ている画家のボングランでさえも高く評価するもの。大衆にはまだ理解できない芸術の到達点とされています。
一方、クロードの作風を一部取り入れたファジュロールという人物は、世渡りが上手いこともあり、次第にサロンに評価されていきます。
ファジュロール自身もクロードの才能を認めており、自分は絶対に敵わないと自覚しています。そしてクロードの技法を真似して作品を制作しますが、能力の低さがかえって大衆に評価されてきます。さらにはここから、ファジュロールは上手く世渡りをこなすことで上流階級へ食い込み、サロンの審査員にもなっていきます。
このような本来評価されてしかるべき才能あふれる人物が辛酸を舐め、一方で能力は劣り天才の模倣で評価されていく展開に、読み手側はなんとも言えない無力感を感じます。クロードの日常も、絵を中心に次第に荒んでいく描写が、より生々しさを感じさせていきます。

芸術小説なのにリアルな人間臭さが充満している作品

若い頃(上巻での内容)には、まだ目が出る前の若き芸術家仲間だった登場人物も、それぞれが仕事が評価されたり家庭を持ったりと状況が変わる中で、お互いへの思いも変化します。
モデルとなったスザンヌも、パリを離れて田舎で創作活動に集中したように、クロードもパリを離れて田舎で生きること自体に対する喜びを見出しかけていきます。
ところがその天才性が人間らしい幸福へ浸ることを拒み、いつしかパリへ戻ること、絵画へ手中し命を賭けて取り組むことへと執着していくのです。
後半(下巻)では、クロードと結婚したクリスティーヌが絵のモデルとなって制作を助けますが、絵の中の女(クロードにとっての理想、創作活動)とクリスティーヌ(現実世界、人間としての幸福)の対立として、象徴的に描かれています。
絵の中の女に嫉妬するなど、普通に考えたら馬鹿馬鹿しいと思いがちです。
しかし本作を読み込んでいると、クロードの描く絵の中の女が、まさにクロードの心を鷲掴みにし、クリスティーヌ(現実の生活)を一切顧みなくなる情景が思い浮かびます。
最終的にクロードは作品の前で自殺を遂げてしまうのですが、彼にとっては自分自身の命を添えることで、やっと唯一と言っていいような大作が完成することになります。
また、後半部分では若い頃から仲間として付き合ってきたメンバーとの再開の場面も描写されており、同じように集まったはいいが状況や立場が皆違っているため、昔のように信頼し合うような関係性にはなれません。それを確認するために集まったと言ってもいいほど。
時間の経過とともにかつての友人たちと疎遠になってしまう、現実社会での余裕のなさもリアルに描かれているあたりが、やはり読者の共感を読んで引き込んでいきます。
その引き込まれるような危険な雰囲気が、まさにゾラの作品らしさというか、暗澹とした悲劇の匂いとして満ちてきます。
本作は狂気と天才性が共存する一人の人物が主人公として描かれている時点で、物語の終局にはきっと主人公は自殺するぞ、ということがわかります。
ある意味では、読み手の予想通りにことが進んでいくので、暗い中にも気持ちよさが存在します。
しかし、クロードの心情を事細かに追っている読み手にとっては、クリスティーヌと息子のジャックとも幸せに生活して欲しかった、というクロード自身にとっては幸せになり得ない結末も期待してしまう部分もありました。
読後感としては、そもそも主人公が自殺するだろう、という予測もたち、著者もそこをゴールとして構想していることから、悲劇的な終わり方をするにしては気持ちのいい感触が残っています。
やや長めの小説ですが、じっくりゆっくりと読んでいると、芸術家の熱い気持ちに寄り添って、自分も何か熱中していた頃の思いが蘇ってくるように感じる小説でした。