イエスの生涯 メシアと受難の秘密 シュヴァイツェル著

宗教・思想・哲学


イエスの生涯―メシアと受難の秘密 (岩波文庫)

密林の聖者になる前の著作

密林の聖者として名高いアルベルト・シュヴァイツァー博士が医師としてアフリカへ旅立つ前に神学者として著したイエス論。

原題では「イエスの生涯の素描」というタイトルになっており、いずれは本書の着想を深堀したうえでのイエスの生涯を記述しようとしていたようです。

ですが結果的にそれは叶わず、日本語訳をした波木居齊二氏が「イエスの生涯」というタイトルを訳文に採用したとのことです。

シュヴァイツァー博士が書いた「水と原生林のはざまで」をたまたま読んだ時にその経歴を知ったのですが、医師になる前には神学者としても将来を期待されており、またオルガン奏者としての才覚も発揮していました。

なんというか、完璧超人なのかと思うくらい色々やってその上優秀だなんて、チートキャラ感が半端ないです。

そんな完璧超人であるシュヴァイツァー博士の若き日の著作、「イエスの生涯」。

 

なんだかとても読みにくい本

博士が若い時に書いたということから、まだ読み手のことを考えて書くという視点がないのかもしれないと思うくらいに読みにくい本でした。

翻訳がマズイ…という可能性もありますが(岩波文庫の場合、日本語が古いことが多い)、この本に限っては原文がそもそも読みにくい形のようです。

本書が書かれた背景には、考古学的なアプローチによって明らかになることが増え、さまざまなイエス像が濫造されるのを憂いて、ここでいっちょちゃんとしたイエス像を書きましょうという訳があったようです。

神学の分野でもこのシュヴァイツァーが書いたイエスの生涯については、異色の本であるという評価がなされており、それは読んでみるとなるほどと思うようなものに仕上がっています。

このようなイエス像を書けるのなら、その後の神学界における発展にも関わって欲しかったと惜しまれるほどの才能だといいますが、門外漢の私にとってはよくわからない話です。

そういう学会内の立ち位置はさておき、この本はとにかく読みにくいんです。

読みにくいのは厳密に聖書のあの場所のあの記述がどうのこうの…というのが多すぎること、そして一文が非常に長くて何を言っているのかを忘れてしまうということが大きです。

しかしそれらを我慢して何回か読み返したり、行ったり来たりすることで読み終えると、まあ確かに聖書を丁寧に読み込めばそうなるだろうなあということ、慣習的に言われているイエスの生涯とは異なる像が浮かび上がってきます。

これは非常に興味深い事実の発見です。

とは言っても、イエスが何をなしたのかとか、イエス自身が生きている時にメシアとしての自覚があったのかなどということは、今の信者にとってはあまり重要ではないのかな?とも思いました。

専門特化した最先端の聖書解釈(当時の)における、生前のイエスによる活動内容やその時の時代背景について、従来の聖書解釈や今(当時)濫造されているイエス像はちょっと違うんじゃないの?という重箱の隅をつつくタイプの内容です。

この本を面白く読める人とは

聖書そのものを研究する人にとっては興味深く読める本でしょう。

また、イエスそのものを人間として捉えたい、日本人的な感覚(遠藤周作的な捉え方)を持ったキリスト者であっても、その人となりに迫る1つの手段として興味深く読める本です。

私はイエスその人がどのようにものを考え、発言し、行為をなしたのか、というところに興味がありました。

それはイエス本人の思想を追うことで、「キリスト教」になる以前の「愛」の実践を知ることになるのではないかと思っています。

この愛の実践の生の状態に近いものを掬い上げることで、巨大組織となり少なからず官僚機構的になってしまった教会のフィルターを通さずに、原初の教え、考え方を知りたいと望むものです。

私自身はキリスト教の信者ではないのですが、新約聖書をよく読んでいくと、遠藤周作が描いたようなイエス像、そのイエスがなした愛の実践こそが人が人として生きるお手本のような生き方ではないかと思えてくるのです。

信仰というある種のフィルターを通さず、人間としてのイエスがどう生きたのか、そして何を目指して活動していたのかをしりたいと思うのです。

そんな欲求に対しても、この本は一定の回答を示してくれています。

やはり厳密に聖書を読み込んで、その上での解釈を引き出すという方法による「イエスの生涯」であるので、論文風の堅苦しさは多分にあります。

そういう本だからこそ、後世の人間による主観的な思い込みや希望的視点を極力取り除いた上でのイエス像が浮かび上がってくるのではないかと思えてきます。

とにかく読みにくいせいで何回も読み返すことになりましたが、そのおかげでシュヴァイツェル博士が説くイエス像の理解はより進みました。

そしてこの本によるイエス像の理解は、他の古典的なイエス像や現代的イエス像を理解する時にも一つの雛形として私の意識の中に確立されることでしょう。

 

イエス論を読むことで聖書の読みが深まる

信者じゃないのに聖書読んでいるというと、ちょっと変わった人ねって言われます。

でも欧米の歴史や哲学をやるにあたっては、この知識はベースとなる考え方なので必須でもあります。

そんなわけで聖書を何度も読み返すことになるんですが、本書のように直接的に聖書の題材であるイエスの生涯について書かれているものを読むと、この本の内容を改めて検討するために聖書を読み始めてしまうんですね。

そして何度も何度も繰り返して読んでいることと、新しい聖書解釈の知識を得たことによって、さらに読み方がマニアックになっていくのを感じています。

まるで熱心な信者のようだなと思いますが、本物の信者は毎週読んでますものね。

そこまでには至らないにしても、信仰というフィルー抜きにして聖書を読むことで、やはり世界一読まれているだけのことはあり、さまざまな知恵を見出すことができます。

今回はたまたまシュヴァイツァーが神学者だったというところに興味を持って読み始めた本ですが、聖書解釈を深めるという点からも有意義な読書となりました。

ただ、この本を万人に勧められるかといえば、それははっきりと「否」と答えるでしょう。。

短いのに本当に読みにくいんですって…。

 

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