『本は読めないものだから心配するな』菅啓次郎

いわゆる「本好き」向け書籍

本好きの間では有名らしくて読んでみた。

本フェチの私としては、紙質が柔らかくてページを捲るのが気持ちいいのが最も印象的だった。

内容は随筆っぽい感じなのか、でも詩的な文章で読み手の経験と反応してイメージを想起させるもののように思う。

なるほど本好きはこういう本を好むのかというのが正直な感想。

こういう本を好んで読むような人が、読書家と呼ばれる人なのだとしたら、私は読書家というよりはただ本を消費しているだけの浪費家だ。

私にはまだ、この本のような文学的な雰囲気の良さがよくわからないのだった。

元々理系の世界が長かったからなのか、ぼんやり想像させる系の文章がまだ馴染んでいないような感覚。

そして本書の文章はやや冗長だと感じた。表現がきれいだなあと感じた。

「本は読めないもの」とは

本のタイトル『本は読めないものだから心配するな』を文字通りに受け取るとすれば、私が感じた文章への理解困難な感覚は、著者視点では「そういうもの」だから心配するなよ、ということなのだと思う。

先程私は理系だから文学的な機微が理解しにくいなどと言い訳めいたことを書いたが、実はそうではなくてただ単に本というのは理解そのものが難しい、ということなのだろう。

本を読んで「わかった」「読めた」という感覚は人それぞれであるとは思う。

しかし一定のレベルでの読者間での共通認識は形作られるものだ。

私はそういったものが自分だけの読解力で到達できるのなら、その本はわかったと言っていいのではないかと思う。

それなのに自分はその一定レベルまでの理解に到達できない。

自己流「わかる」でいい

ここで再びタイトルに戻ると、そもそもほとんどの人が本を読んで「わかる」という状態に到達しているのだろうか?

一番初めに「この本は〇〇だ」と発信したり、あるいは著名な人物が評価した内容に引きずられているだけなのではないか?

他人の頭の中がどうなって結論を導いているのかは確かめようがなく、おそらく本人もどのようなプロセスで考えたのかもわからないのだろう。

だがかなり長い時間を本を読むことに費やし、それを自分なりに咀嚼して吸収し、自分の生き方に取り入れるかどうかの取捨選択を繰り返してきた中でいえば、他者の考えを取り入れるにしても結局自分が飲み込めたことそのものが重要になってくるのだと思う。

他人の感想や考えを取り入れようと入れまいと、それら全部を包含した上での自分なりの結論が持てればいいのだろうと思うことにした。

ここに至り、『本は読めないものだから心配するな』の意味が、一周回ってまた別のニュアンスを放つように感じるのは私だけでなはいはずだ。

やはり読書は面白い。

そして「こう読むべき」「この解釈が正解」という評価自体、個人的に人格を磨くための読書には無用のものなのだと言えるのだ。

私のごく個人的な結論

これも私の個人的な解釈にすぎないが、もしかしたら著者は、自分なりの読み方でいいのだということを言っているのかもしれない。

正解がない世界で、正解のある問題ばかり解かされる教育機関に10年以上所属し、自分なりの考えを持つことを自ら禁止している人々への遠回しな自由獲得のメッセージだったのだ。

私はそのように受け取り、自分なりの結論とした。