蘇我氏−古代豪族の興亡 倉本一宏 著

最強豪族の栄光と没落

蘇我氏と言えば日本史の中でかなり有名な豪族の一族ですが、これまで蘇我氏そのものに
関する一般向けの書籍って見かけなかったように思います。

日本の古代史は結構謎だらけで厨二心をくすぐる分野でもありますが、この蘇我氏については
なんか革命で倒された悪いヤツ的な印象が付き纏っていました。

乙巳の変(大化改新に繋がるクーデター)で滅ぼされた蝦夷と入鹿の親子のあとに、大化改新
という古代日本が独立国として国際社会に打って出ていくという一大イベントが起こっている
というのもあるのかもしれません。

かつて物部氏と仏教を国内に受け入れるか否かで争った際には、蘇我氏の主張が通り仏教が
日本全体の宗教のような形にもなっています。

それほどまでに権力を持っていた蘇我氏ですが、現在の視点から見るとやはり悪者っぽさが
より強調されて歴史に記録されているように感じます。

古事記、日本書紀の記紀がほぼ唯一の正式な記録とも言える時代において悪者的な書かれ方を
するということは記録を残した当時の政権からは目の敵にされていた、ということでしょう。

一方で乙巳の変で倒されてしまうということは、それだけ国内政治で強大な権力を誇っていた
ことの証でもあり、超重要な一族でもあったということができます。

資料が乏しく正確なことがわからない古代だからこそのロマンと、時の権力者が国内の支配を
盤石にするために悪者を作り出す必要があったという政治性。

こうした異なった視点を考慮した上で歴史を読み解いていく時、本書「蘇我氏」のような、
意図的に歪曲させられているような一族、人物を深掘りすることは、非常にワクワクする
作業にもなってきます。

蘇我氏は滅びず、ずっと貴族でいた

蘇我氏の中でも超有名な蝦夷・入鹿の父子は645年の乙巳の変で討たれてしまいました。

しかしそれは本家の主人と後継が殺されたというだけで、蘇我氏一族そのものは滅亡せずに、
以後も国家権力の中枢に位置しつづけていくことになります。

かなり長い間、有力貴族として名前を変えたりはしながら存続していくのです。
とは言っても歴史上でも目立つのは、稲目を始祖とした馬子、蝦夷、入鹿の四代です。

ここまで名前を残すほどに強大になる以前、いかに頭角を現し、大臣として国政改革を
推し進めたのかについて、本書ではかなり詳しく説明されています。

この本の紹介文(一部抜粋)でも、

大化改新後、氏上(一族の首長)となった倉麻呂(馬子の子なので蝦夷とは別系統)系は壬申の乱へと続く激変の時代をどう生き延びたのか。六世紀初頭の成立から天皇家を凌駕する権勢を誇った時代、さらに平安末期までを描き、旧来の蘇我氏イメージを一新する。
※()内は追記。

のように書かれていて、蘇我馬子→蝦夷→入鹿の蘇我宗家系は乙巳の変で滅び、その後傍系で
馬子の子から別れた分家筋が宗家を名乗るようになります。

その後、蘇我氏系の血筋からも天皇が生まれたりするので、蝦夷や入鹿の時代が蘇我氏の
ピーク、といいきることもできないのかもしれません。

そして時代が降るにつれてなんやかんやあって名前が石川、宗丘、宗岡などと変わっていき、
今でも見かける宗岡(むねおか)さんなんて姓になっていきます。

最終的には壬申の乱とかなんやかんやあって、負けてしまって失脚…なんてことにはなって
いくのですが、一般的に広く認識されている時代よりもかなりあとまで「蘇我氏」として
存続している、という新事実に新鮮な驚きを感じるわけです。

学校教育は”入口”に過ぎないってこういう意味

いわゆる歴史の授業で習う蘇我氏のお話って、乙巳の変で滅びました的なことで終わって、
その後歴史の授業では「そが」さんって出てきませんよね。

私たちはいつのまには「蘇我氏は乙巳の変で滅亡」したと思い込んでしまいます。

ところがこのような「蘇我氏」そのものにスポットを当てた本が出版され、それを買って
読むという、だれもが手にすることができる知識として普及してもらうと、蘇我氏が乙巳の変
の後もしっかり残って、時代に合わせた変化を受け入れて行っていると知ることができます。

思い込みって怖いなあと思いますね。
もしかしたら私たちが常識として思っていることも、そうでもないかもしれないですね。

そういう思い込みや先入観が壊される快感があるからこそ、こういうマニアックな分野の
読書ってやめられないんですよね。

学校の勉強なんて生きていくのに必要ないって、勉強したくないマセガキ(昔の私のこと)は
屁理屈を捏ねたりしますが、役に立たないのは当たり前なんですね。入口だから。

学校の勉強を通じて得られるのは、この世界にはこのような知識体系があって、ここ(学校)
ではその概略だけをお伝えしますね、深めて実用性を伴うには自主的な学習が必要ですよ、
ということなのだと思います。

この「蘇我氏」のエピソードを読んでよくわかりました。

でも、先生方もそういうふうに「あくまで学校の勉強は導入に過ぎない」的なことをよく
説明して欲しかったものです。

私も教員という仕事を経験し、自分でも読書をし続けてやっとこのような認識に至ったわけで
この認識が世の中の児童・生徒に共有されれば、もっと深遠なる知的興奮を惹起する知の源泉が
存在するとワクワクできるんじゃなかろうか、そんなふうに思います。

蘇我氏と全然関係ないこと書いてら。
では。