水と原生林のはざまで シュヴァイツェル 著 野村實 訳

歴史

水と原生林のはざまで (岩波文庫 青 812-3)

密林の聖者自ら記した支援の記録

”教職とオルガンを捨て、医師としてアフリカの仏領ガボンに渡り、…”という表紙の紹介文に惹かれて、ついつい手に取ってしまった本書。

シュヴァイツァー博士のお話は、小学校くらいの国語の教科書に乗っていたような気がしますが、この本は「シュヴァイツェル」と表記されていたため、先入観なく購入、読み始めることになりました。

読み進めていくうち、なんだかどこかで聞いたことある話だな…と思い始め、シュヴァイツェルってなんか英語っぽく読むとシュヴァイツァーって最後伸ばすのでは…と思い至り、同一人物だったと思い出しました。

だからなんだって話ですが、この話を他人への奉仕と感謝にとんでもない喜びを感じる私が、小学生の頃に読んだにもかかわらず医者の道を目指さなかったのは、「国語の教科書」というやや退屈な反強制的な読書体験によるものだったせいかもしれません。

改めて本書を自分で購入し読み始めてみると、彼の為したことというのは本当に心を打ち、そして当時の社会情勢を考えればまさに破格の勇気を以て行った行為だろうと想像に難くないのです。

昔の岩波文庫(青)なので文字が小さく、そして行間も狭いため、現在の甘やかし書籍になれた私の目には非常に辛い読書となりました。

しかしながらその内容については、淡々と事実を述べており飾るところやおそらく誇張もないような印象ですので、すんなりとおかしな解釈も必要とせずに読み進めることができます。

今、この本を読んで思うのが、彼が始めて原生林に病院を立てたのが37歳の頃だと言うこと。

元々、神学の教員として大学で教え、オルガン奏者としても成功していた著者なのに、30歳にして医学の道を志し、そしてアフリカへ渡り医療を提供するという事実に、私は自分自身がいかに甘ったれた人生に甘んじているのかと猛省をせざるを得なくなります。

 

後の世の評価を知っているかのような事実だけの記述

本書に書かれている最初のアフリカ滞在によって行われた医療行為は、その地域に取ってはまさに奇跡のような出来事だと言えるでしょう。

後にノーベル平和賞を受賞するほどなので、その業績を記録した本書は、今に至るまでに誇張されたり売り上げ増を見込んで盛ってくることも考えられます。

少なくとも現在の商業主義の社会では、当然のこととして分冊化したり業績を盛ったり、さらにはグッズ販売とかも始めそうですが、この本では全くそう言う気配がありません。

シュヴァイツェル本人がそのような活動を嫌ったということもあるのでしょうが、私が感じたのは、後の世に彼のことを差別主義者だとか非難する人が出てくることを予見していたのではないかと思うような、淡々とした書きっぷりなのです。

ご本人の性格的なものの現れが偶然そのような表現となったのでしょうけれど、後の植民地政策の手先であるとか差別主義者だという非難に対し、このような表現で記録を出版していると言うところに大物感が滲み出ているように感じました。

本当に素晴らしい人格を持っている人というのは、そもそも自分の能力や業績を見せびらかす必要がないので、このような無駄がなく必要な事実だけを記述するということができるのでしょうね。

そして、その事実をありのままに記述するというシンプルな方法だからこそ、この人が為し得た原生林での医療行為というものが、強烈に浮き上がって私たちに衝撃に似た感動をもたらすことになっていると言えるでしょう。

 

人はみんなこんなことしたいって思っている

私はこの本を読んだのが37歳というシュヴァイツェルが初めて病院を建てた年齢と同じということもあり、強烈な自分の人生へを省みる衝動に駆られました。

個人的な話ではありますが、30歳で医師を目指して留学したという友人もいることから、自分はいったい人生で何をなしうるのだろうか?と深く考えるきっかけになっています。

人はそれぞれその人生でなすべきことが決まっている、生まれる前に決めてから生まれてくるという説もあるようですが、やはりこのような偉大な人物の業績や、それに似たことを始め用としている友人が身近にいることによって、受け取る刺激は強烈です。

一度は小学生のころに知った人物ですが、このタイミングで再び自ら自腹で入手した本として読み直す経験をするということは、もしかしたら何かのきっかけになるのかもしれません。

もしシュヴァイツェルの名前を知っているが、詳しく何をした人なのかは知らない、もしくは忘れたという方は、図書館にもあるでしょうし古本でも売ってるはずなので、読み返してみるのをオススメします。

自分の人生、このままでいいのか?という疑問に対して、その疑問はこれから動き出すための心の準備だったのだと思える日が必ず訪れるはずです。

人は皆、できることなら他の困っている人を助けたい、力になりたいって思っているはず、と私は信じています。

でもそれができないのは、余計なお世話として受け取られて攻撃されたりするリスクがあるからだと思っています。

そうは言っても、差し伸べられた親切な行為は、それがたとえ偽善だと罵られようとも、親切な行為を実際に行っているのだから、その意図が偽善であろうとなかろうと、助けられた方は確実に楽になるはずです。

そう思うことにして、偽善と思われても結構!大きなお世話だったらお断りください!という気持ちで道のゴミ拾いから始めているのが私です。

そういう小さなことから少しずつ、「いいこと耐性(いいことをするのが怖い気持ちに慣れる)」を強化して、いずれはシュヴァイツェルのような大きな貢献につなげていけるようにしたいですね。

 

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