英語圏向け「禅」の解説書
約100年前に書かれた、英語圏(ヨーロッパやアメリカ)向けの禅についての解説書です。
現在の日本人は当時に比べたら生活習慣や思考などのかなりの部分が欧米化しているため、この本の日本語訳を読むことは非常に有意義なことだと言えるでしょう。
私自身、禅や仏教思想に関する興味があり類書を読んだりしていますが、それでも本書に書かれている内容には目から鱗が落ちるような思いがしました。
むしろ当時の日本人向けに書かれている本は、旧仮名遣いであったり言い回しが漢文調であったりするため、その意味を汲み取りにくくなっているため、元々英語だったものを日本語に訳したような文章のほうが読みやすく感じるでしょう。
なんだかそういう事実を知るに連れて、自分たち固有の文化的背景や思想形態、さらにはアイデンティティなどが失われていってしまうのではないかという危機感も感じてしまします。
本書は禅についての知見を深め、本来言葉では伝えられない「悟り」というもの、さらには「禅」そのものについての認識が、「きっとこんな感じだろうな」というレベルにまでは感じられるようになります。
そういう意味でやはり鈴木大拙という人は、偉大であったのだなと感じ入ってしまいます。
禅とは瞑想ではない
座禅を組むことによって禅を行う体験をしたことは多いと思いますが、その目的は瞑想を通して精神の安定を図ること、というふうに私は認識していました。
つまり「座禅=瞑想」、そのように認識し、座禅を組むときにも目的を持って行いました。
ところが禅とは、目的を持って行う時点で禅ではなくなり、瞑想とは違うものであると本書には書かれています。
禅とは悟りに至る手段のひとつであり、「座」禅というようにたまたま座っている時に禅を行うから座禅といい、普段生きていること自体が禅でありうるというのです。
生活全てが修行とはよく仏教の修行僧では言われていますが、まさに何気ない毎日の生活や行為の中に見出すもの、何者にも縛られない自分主体の存在を掴み取るためのプロセスが禅なのである、と私が理解しました。
理解しました、というのは、禅や悟りというものは、「悟った」「わかった」と思ったりいったりした瞬間にそれは失われてしまい、決して言葉で伝えることができないものなのです。
その人独自の体験として経験されるものが「悟り」であり「禅」であるのです。
本書でも「あなたが空腹の時に、私が代わりに飯を食ってもあなたは満たされない」というような例示があり、悟りとはそういう自分の体験としてしか得ることができないものだと言われています。
そしてその体験は、だれもがみな同じ条件で起こるのではなく、人によっては庭に突き落とされたり、掃除している時に掃き飛ばした小石が木に当たった音を聞いたりしたことをきっかけに「解る」というのです。
禅問答はわけがわからないのが本物
「禅問答」という慣用句がありますが、禅の場では弟子と師とが論理的に噛み合っていないトンチンカンなやりとりをしています。
側から見たら意味がわからないやりとりだったり、とても不合理なことをしているように見えるし本人もそのように感じます。
しかし師匠は「言葉による呪縛」からの開放を目指し、それをサポートするためにそのようなトンチンカンな問答を行っているのです。
ではお笑い芸人のボケのような返答なのか、というとそうでもなく、悟りに至る、禅が溢れている返答や行為を行うことが求められます。
これについては体験として習得するしかないのでしょうが、本書でも「解った」人たち(歴史に名を残すような名僧たち)のエピソードがたくさん書いてあるので、多分こんな感じというのは想像できます。
想像できますが、きっとその想像はその人のなかでの「解った(悟り)」にすぎなくて、もし私が禅を通して悟りを得るとなった場合には、また別の体験として「解る」のだろうなあと思うのです。
むしろこの本を読んで、「悟りってこんな感じだろう」という先入観が生まれてしまった時点で、私はその境地へ至るための途上に、大きな障害を抱えてしまったとも言えそうです。
知識として「禅」を習得しようとするとそれは「禅」から遠ざかってしまうという皮肉な結果になってしまいますが、私自身の認識では、禅の考え方を知ること自体が精神を穏やかにする第一歩ともなるのではないかと思うのです。
禅の目的は悟りを得ることなどと一応は言われていますが、座禅や日常的な禅(心のつぶやきを止めて「五感で感じる」ことに集中する)を行うこと自体が目的と言ってもいいと思います。
それは禅とは無目的であり、禅を行うことそのものがすでに悟りの1形態であるとも私は思えるからであり、禅を行うと意識して心の言葉を止めると、おのずと心のざわつきも落ち着いてくるのです。
これはもしかしたら私自身の「悟り」の形なのかもしれません。
とは言え禅の状態にある時、それは日常を通じて常にそうありたいと思うのですが、本当の自分を生きていると確実に言い切れる状態とも言えるのです。
言葉にも身体にも心のざわめきにも縛られず、本当の自由な状態が「禅」なのだと。
本書でもそのように書かれており、私もそれを感じることがありましたが、私が感じている禅の境地と本書が描く禅の中身について、どちらが正しいとかはないのでしょう。
例え私の体験が禅とは違う物だったとしても、私は穏やかな状態でいられるので結果オーライなのです。
そのくらい禅とは自由で、決まった形がなく、そして他者の体験である「禅」を確かめる術なない、そう思います。
過不足のない絶妙な禅の本
この本を読みながら感じたことは、読みながらにして禅である、ということです。
本書の記述内容は、禅とはなにか、から始まって一般的な僧侶の修行の様子や公案の例示などとなっています。
中には名僧たちが悟りを得る際のエピソードも散りばめられており、悟りの代理体験のようなことはできなくもない作りになっています。
そしてこの本は元は仏教的な背景がない欧米人向けに書かれたということで、欧米化したけれど文化的素養は日本的な私たちにとっては非常に頭に入ってきやすい形となっているのです。
著者がそう意図したわけではないのでしょうが、結果的に100年後の日本人にとっても非常にわかりやすくイメージが湧きやすい本になっています。
巷に溢れる表面的に瞑想の脳科学的効能を謳ったようなビジネス書のような薄っぺらいものではなく、禅とは瞑想とは違い、瞑想の要素は含むこともあるかもしれないがそれは本筋ではなく、真の自由を獲得するプロセスであることまで理解ができます。
本当に偉大な人が書いた、偉大な一冊。
それが本書『禅学入門』であると言えるでしょう。
日常の些事に悩むビジネスパーソンに、対処療法的即席瞑想法よりも本質的な禅学入門を。