禅
鈴木大拙 著、工藤澄子 訳
鈴木大拙と「禅」という書籍
鈴木大拙という人は、
日本の「禅」というものをアメリカをはじめ英語圏の社会へ紹介した人物です。
故に当書籍が発行された時、英文で書かれていました。
東洋思想、特に仏教思想に対する理解がない欧米の人々に対して「禅」を説明することを
目的としている本のため、とても平易な表現を多用し、かつ欧米系の人の価値観や言葉でも
理解しやすい様に書かれている本です。
そのため、現在の日本人(かつてほど仏教が生活に密着していない)にとっても、
欧米化が進んだ生活様式に慣れている分、わかりやすい形になっているものだと思われます。
「禅」とは
禅、とは。
この本を読んだところでは(読みが浅いのはご容赦下さい)、
禅とは何かと考えはじめた時点でそれは禅でない、
ということです。
禅とは何かと考え始めた時点で禅ではない。
まさに「禅問答」。対象を掴もうとすると対象が変化してしまう、みたいな。
そういう、雲をつかむような話が続きます。
こういった禅問答と言われる文章を読むこと自体、禅の一環であると思います。
「只管打坐」という、雑念を捨ててただ単に座り続けることをする坐禅に通ずるものです。
悟りを求めた時点で、悟りを得ることができないと言われます。
目的を持って、それに向かうという意図がすでに雑念である、と理解しました。
もちろん、日本における禅の成立史や、そのルーツとなったインド仏教の話、
中国で道教など土着の信仰と習合した話なんかも載っていて、
民俗学好きな私には面白く読めました。
禅と仏教との違い
以前に「般若心経は間違い?」というスリランカのお坊さんが書いた本を読みました。
原始仏教に近い形のスリランカの仏教についての記述が詳しい本なのですが、
この本の内容と今の「日本仏教」「禅」という形を比較した時、
もはや日本独自の思想と言える色合いが強いなあと改めて感じるのです。
日本はもともと自然崇拝(神道)の様なものがあって、
ここに道教が混じった中国仏教が入ってきています。
そもそも仏教は死後の世界を否定した哲学でもありますが、
日本のそれはあの世に関することが中心です。
一口に仏教といっても国や地域の背景にある文化の相違によって、
各地で最適化された、独自文化として発展していくものと言えます。
そういった視点で改めて禅を見直してみると、
日本人の精神性や文化など、根本思想が具現化した一つの形でもある
という風にいうことができます。
すでに日本における禅とは、日本独自の精神修養の体系として確立されているもの
そう言い換えてもいい様に思えます。
内面との対話、それが仏教
世界に広く伝わる宗教は、その土地それぞれの特徴が出てきます。
宗教の考え方によっては教義の解釈の違いで争いも起きたりします。
日本の仏教でも○○宗とかありますし、そもそも日本の仏教も結構特異です。
ですが基本的に仏教は内面に深く入っていく性質のため、
他者へ口出ししたりという発想がなく、
幸いにして戦争の火種にはなりにくいということにも言及されています。
だからこそ、その土地の風土に合った仏教の方法が確立されていったのだ、
という風に腑に落ちたのでした。
つまり「禅」とは「禅」である
「禅」を通読してみて感じたのは、
悟りを得ようと努力すればするほど悟りからは遠ざかる。
禅とは何かを理解しようとすればするほど禅の本質からは離れてしまう。
ということです。
日々、無意識に過ごしている習慣を意識的に行うことで、
それが動作一つ一つが「禅」として成り立ち、
結果的に悟ることにつながる。
目の前の作業(掃除や食事も含めた全て)に対し、
所作に没入して雑念を手放すこと、感情を受け流すことが
悟り境地へと至るプロセスなのだろうと結論の様なものを得ました。
そういった過程を繰り返す中、ふと
「悟りを得た」と思うことが来るかもしれません。
しかしそう思った瞬間には、すでにそれは悟りと言えなくなる。
食べること、歩くこと、働くこと、遊ぶこと。
どんなことでも禅になる。
逆に目的をもって座禅をすると、それはただ座っているだけになる。
なぜ座禅をするのか?
それは座禅するからだ。
文章、言葉では結局、本質は伝わらないのです。
だから禅問答があるわけで、本人が体験するしかないのです。
そう合点がいくと、
本書の中で触れている師匠と弟子の対話も、
ああ、そういうことですか、たしかにそうなりますねって納得できます。
まさに歴史的名著というにふさわしい本でした。
読むだけで「悟り」が理解できるわけではないのですが、
悟りとは、というのが結局伝えられないので体験するしかない、ということが
よくわかる本でもあります。
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