新史論/書き換えられた古代史2 神武と応神「祟り王」の秘密
関裕二 著
日本古代史に新しい視点を
日本古代史に新しい視点を提供する本です。
俄か古代史ファンの私としては、つい手に取ってしまうタイトルでした。
過去の出来事は、それを見る時代(現在)側の価値観や解釈によって変化していくものです。
今回読んだ本も、そういう視点から見ると面白い試みと言えます。
実際、読んでる最中はワクワクして次々にページをめくる手が止まりませんでした。
日本書紀編纂の意図を探る
さて、内容ですが、タイトルの通り「祟り王」にまつわるお話。
神武=初代天皇とされている人物
応神=第15代天皇とされている人物
この二人の天皇+祟る王が○○なわけです(←ネタバレになるのでふせます)。
この本を読む前に日本書紀(現代語訳など)を通読しておくと、
もしかしたら理解を助けたのかもしれません。
日本って、自国の歴史を学ぶときに国の成り立ちを勉強しない珍しい国なのだそうです。
だから歴史書として名前は知っていても、その中身はわからない(古事記、日本書紀)。
神話と歴史を一緒にしてしまうのも問題ありとは思いますが、
民族の精神的支柱を形成する神話ですから、きちんと「神話」として理解した上で
学ばせることも有意義なのではなんて思いますけどね。
話が脱線しました。
そんなわけなので、自分で読むしか知る方法がないのですね。
結果として、日本書紀を読んでいない自身の教養不足を悔いました。
というのも、この本のテーマが日本書紀編纂者の意図をくみ取ることにあるからなのです。
勝者の歴史を疑う
日本書紀が出来た当時の天皇は天武・持統の両天皇です。
この時点で歴史に詳しい人からは何らかの反応が出てきそうです。
まさに日本の統治についての転換点ですね。
天武・持統朝は日本の統治を作り変えた天皇と言われています。
伊勢神宮の式年遷宮を始めた人たちでもある。
結果として勝ち残ったので、クーデターではなく正当な皇位継承として記録されています。
実際はどうだったんでしょうね。
皇位を巡って対立、という時点でキナ臭い感じがします。
歴史はそういうのがあるから面白いんですよね。
歴史に「if」は無いって言いますが、そういうのを想像するのもまた楽しみ。
通説、常識を疑ってみることから始める
日本書紀をじっくり読み込み、この書物を作り上げた為政者の意図とは?
前提として、歴史は勝者によって作られます。
ということは、敗者として描かれている物部氏や蘇我氏の存在、
さらには記録にさえ残っていない尾張の豪族や毛野氏なども、もっと重要な何かを
起こしていたり担っていたりしたかもしれないんです。
資料がないから結局推測しかできないんですけど。
とは言えこれも単なる遊びに止まらず、あらゆる可能性をあらかじめ考え、
発掘調査や文献研究の際の《仮説》として必要なことでもあります。
今回、日本書紀編纂の意図についての斬新な仮説から、祟り神と天皇との関係性に
迫った内容となっています。
個人的には、こうした斬新な視点がもっとあっていいのに、と思います。
そういう議論が起こるきっかけが増えることで、より正確な歴史認識が可能になり、
私たち自身が何者なのか、という理解を助けることにもなるからです。
本職の学者先生ともなると、色々なシガラミで斬新なことを言えないのかもしれませんが、
学問の最先端で事実を確定していく工程では、科学的なアプローチで進めるのもアリでは?
と生意気にも考えています。
まだまだ新発見の余地あり
日本書紀の記述は勝者による歴史である(古事記と微妙に異なるようです)、
ということを念頭に大和朝廷発足時に何が起こったのかを考えていくと、
通説とされていたものが覆される可能性がある、ということです。
面白すぎてゾクゾクしますね!
大発見って大抵突拍子も無いところから出たりしますもんね。
この仮説が裏付けられる資料とか、発掘されたりしないもんですかね〜!
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