十字を切る 晴佐久昌英 著

宗教・思想・哲学

十字を切る 晴佐久昌英 著

「十字を切る」行為から理解するキリスト教

本書の「はじめに」でも書かれているように、まずは「十字を切ってみよう」という所が
本来の宗教の形を体現していると思う本でした。

教義が発達し巨大な教会組織となってくると、原初の思想は薄まり何が目的なのかを見失う
ことが歴史上見受けられます(素人目にそう映ります)が、本書のアプローチでは素人でも
キリスト教の教えに直に触れることができる、手軽なのに効果てき面の方法です。

学問として極めるのではなく、神の愛に触れるとか救いを求めるといった宗教の本来の使用
目的に照らせば、このような形で広めていくのが効果的であり本来の姿だと思う本でした。

 

内容について

十字を切るというタイトルに象徴されるように、十字を切ることの意義、十字を切ることで
得られるもの、十字を切る場面などが丁寧に解説されています。

宗教アレルギーがある日本人にとっては、こうしたモロに宗教臭さが漂う本を手に取るのは
やや抵抗があるかもしれません。そして事実、その抵抗感は当然とも言えます。

なぜなら本書を読んで素直に受け止めた上で十字を切ってみると、なんとなく救われるような
気持ちがスッと楽になる感覚を得ることができるからです。

この本を読んだ全員が全員、そのような感覚を得るかどうかは不明ですが、こうした本を手に
取るような人(私も含め)は、体感的に理解することができそうです。

 

藁にもすがりたい時の緊急避難として

困難にあるときや苦しみの中にある時、人は藁にもすがる思いで助けになるものを探します。
生きている限り苦しみとは切っても切れない関係がありますが、そうした時に心の拠り所と
して使えるのがこうしたお手軽な方法とも言えそうです。

現在、新型コロナウイルスの蔓延によって世界中が混乱に陥っていますが、少なくとも自分の
心理的な不安やそこから生まれる混乱は、十字を切るなどのわかりやすい体の動きを伴った
アンカリングが有効とも言えます。

完全に他力本願な場合は宗教に依存してしまうから要注意ですが。
宗教家にもそういった”カモ”になる人を利用する節があるので怪しさが増すんですよね。

しかしキリスト教も元々の教え自体は、私が思うには自分自身に立ち返る宗教だったのでは
ないかと思っています。禅に近い思想なのでは、と。

著者について

晴佐久 昌英(はれさく・まさひで)

1957年、東京生まれ。上智大学神学部卒。1987年、東京教区司祭になる。現在、カトリック多摩教会主任司祭。

主著書に、『星言葉』『だいじょうぶだよ』『生きるためのひとこと』『幸いの書』(女子パウロ会)、『あなたに話したい』『希望はここにある』『私は救われた』『ようこそ天の国へ』(教友社)、『福音宣言』(オリエンス宗教研究所)、『天国の窓』(サンパウロ)などがある。

電子書籍『だいじょうぶだよ』『十字を切る』がある。

-本書奥付より引用-

十字を切り続けてきたからこそ、本書のような本が書けるのだと思います。

キリスト教の信者ではない私でも、十字を切ることによって救われるのだ、という感覚が、
体感できたように思います。

キリスト教では神の愛は普く注がれるといいますが、日本の文化的背景にはもしかしたら
馴染みやすいのかもしれません(お天道様が見ている、等)。

そもそも日本の文化は神様がどんどん増えることを許容しているので、そのせいもあるの
かもしれませんが、一番偉い神様(=天照大御神)が太陽神のような存在であることも、
キリスト教的思想との親和性が高いと感じる要因かもしれません。

 

読後感と感想など

非キリスト者から見た時のキリスト者らしい行為である「十字を切る」という行為について、
ここまでわかりやすくその意義や実際の所作を説明した本は初めて出会いました。

私はキリスト教の信者ではないのですが、生活の中で信者の方やキリスト教文化の背景を持つ
方ともお付き合いがありました。
また禅や仏教関連の学びを通じて、真理の探求にも関心を持ち考え続けていました。

そうした私自身の背景と本書の記載内容や出版される背景から考えたことは、十字を切る行為
と禅の只管打坐が目指すところが共通しているのでは?というものです。

表象として現れる行動やその実践者の様相からは、全く別のようなものに見えますが、両方を
実際に行為として体験してみると、その行為を突き詰めた先には、いわゆる「悟り」の境地が
待っているような感覚を得ました。

つまり、自分の芯というか中心にあるものに立ち還るということです。

キリスト教的な書物では、内なる神の声や父なる神と繋がるというような表現をされることが
多くあり、よく目につきます。

一方で禅を通じた深い内省、余計な雑念を取り去った末に残る素のままの自分とでもいうのか
魂とでも呼べるものが、キリスト教的な表現では内なる神というものに当たるのではないかと
素人ながら思い至りました。

元々、この世の中の苦しみ、理不尽な迫害、生きている限り逃れることができない苦しみから
魂(意思を持つもの、自己)を救済するというところから出発しているのは、両者に共通して
います。

そうした起源を含めて考慮すれば、自ずと目指すところも似たようなものになるはずです。

現在、その形が異なるのは、教えが発生した原初における文化的背景や説明の仕方といった
アプローチの方法がイエスとブッダで違っていたというに過ぎないのではと思うのです。

宗教に関してなんら本格的な研究も実践、修行もしたことがない素人の生兵法ですが、
素人なりに聖書など原典(訳書ではありますが)を読んだ経験から、このように感じました。

 

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