神社に行くといいことがあるよっていう本
学術的な研究に関するトレーニングを積んだ方が書くスピリチュアル系の本ということで、主張している内容についてはそれなりの根拠があるのだろう、と期待して読みました。
が、モノがモノだけに客観的にデータで示せと言っても、それは具体化している現象でしか示しようがないわけで、著者自身がいわゆる「感じる」人なので、それを根拠とした主張が大半を占めているという印象。
まあだから信じるかどうはは読者次第…とはなるのですが、それはひとまず脇へ置いて、この本に書かれているいろいろなテクニック的なものを実践するならば、それはそれで自分の精神をクリアにする方策としては有効だと言えるでしょう。
冒頭から「神様が自室を訪れてお告げを…」的な展開(ご本人の主観的体験としてはこれが事実として記憶されているのでしょう)なので、そういう話が苦手な人はちょっと引くかもしれません。
が、そもそもコレ系の本を手に取る人が、その程度で引くとも思えないので問題なしです。
なにはともあれ、昔から神仏の御加護によってことを為すというのは、歴史的ターニングポイントでのありがちな話。
本書でも有名武将や政治家が、その成功には神社への参拝があった、という流れで説明もされていきます。
私が思うに、日本人とされる人たちの生活は、宗教意識がほぼないにもかかわらず初詣や季節のお祭りで盛り上がったり食事の前のあいさつなどといった生活に根ざした、改めて見ると神道という宗教絡みの行為に満ちています。
このことから、成功した先人たちが神社参拝を熱心に行っていた、と言ってもそれ日本人にとってそれが当たり前の日常的な習慣だった、とも思えるのですがどうなんでしょうね。
神社を焼き払った織田信長が裏切られた、という神社を粗末に扱った人の例もありますが、神社を大切にしているのが大半の日本人の中でも、裏切られたり滅ぼされた人は居るはず。
この手の話では、厳密にそういう細かいところをつっつくとキリがないので、まるっと「そういうものなのだ」と思って信じてしまうのがいいのでしょう。
かの天才パスカルも、神さまが存在しようとしまいと、神様が居ると信じて生活したほうが、摂生したり善行を行ったりするので心身ともに健康で長生きしするし周りからも慕われていい人生になるよ、って言ってますし。
人間の浅い知恵で勘繰っても、大いなる流れには逆らえないということで、いろいろなモヤモヤを抱えつつもしっかり読んできました。
そういうのが見える人が言うんだから
本書の著者の八木龍平氏は、博士論文執筆中に神さまが自室に訪れて、その使命を賜ったと言います。
人は自分が経験したことがない出来事については、なかなか信じることが難しい生き物です。
私もそのエピソードを聞いただけでは「?」がついて回ります。
本書に書かれている「神社にお参りすることで得られる効果」については、そういうメリット先行で考えてはいけないのでしょうが、たしかに体感として身に覚えがあったりします。
その仕組みは「見える人」「感じる人」のような特殊な能力を持っているか、その感覚が開いている場合でしかわからないのでしょうが、そうでない私でも、風が吹いたり蝶々がずっと飛んでいたりという、”なんだかステキなこと”は起こっています。
そしてそれらのなんだかステキなことがあった後には、自分の主観的世界ではいいことと言える出来事が起こりやすくなるなあ、なんてことも思います。
神社は祈りの場(=意(い)宣(の)り、とも)とされ、自分の意思を宣言する場でもあると本書に書かれています。
これはその通りだなあと強く感じたので思わずメモしたのですが、神社はお願いごとをする場として一般的には考えられており、お賽銭箱の前には煩悩のエネルギーが渦巻いている、と言われます。
しかし神さまサイドからすると、煩悩というか強烈な願望で頭がいっぱいだと神さまが入る隙間がなく、その願望をかなえる手助けができない、といいます(本書では)。
神社は願望を叶えた先にある自分の根底の望みは何か?
を明らかにし、それを自分で宣言する場である、という風に考えます。
神さまに向かって宣言する、しかしシンプルにサラっと宣言するわけです。
そうすると神さまの支援が入る余地があるので後押しが受けられる、という。
そしてその後押しというのが、人と人とを繋ぐこと、といいます。
神さまとされる存在は、実在はしないけど存在はするもので、何かを引き起こすための実体がありません。
そこである願望を持った人に、その人の願望の先にあるものを必要としている別の人に引き合わせるという役割を果たします。
するとお願いした人の願望は叶えられ、ほかの助けが必要だった人は助けられます。
シンプルにいうと神社の役割はこんな感じとのことです。
そしてこれを現在のインターネットのつながりに喩えています。
そう言われると、古代の人々がインターネットのことを知ったら、神さまネットワークだと勘違いしても無理はないくらいの技術ではあります。
このように神社への参拝で願望を成就させることを目指すなら、強烈に欲にまみれたまま願うのではなくて、神社へ行ってお願いするまでに自分の根元的な望みがなんなのか?を自問し続けてシンプルにしておくことが大切なのだと思います。
アプローチ方法が違うだけでみんな同じことを言っている
本書は神社という切り口から人間がよりよく生きていくための道を模索する方法が述べられているものだと私は感じました。
神社で神頼みと言っても、そこに至るまでの自分の努力があってこその心願成就です。
そしてその自分の努力+αの部分に、最後のダメ押しの神社参拝があるように思います。
日本の神さまは人間臭いところもあるようなので、やはり人間に対する好き嫌いもあるでしょう。
私たちが好感を持つ人が直向きに努力したり、頻繁に会いにきてくれる人だというように、神さまから贔屓にされる人も同じような人と言えるでしょう。
となると、お願いばかりしてお賽銭も入れない、必要な努力もしない人がいくら神社に行っても、その効果はたかが知れているわけです。
一方でできることは全てやり、あとはもう神さまに祈るしかやることがない、と言う人については、そもそも神社に行かなくても願いは叶うかも知れません。
しかし自分自身の心を一旦リセットして、真っ白な気持ちで成功の扉を開けることで、その後のさらなる大きな成功にもつながりやすくなるでしょうし、なにより自分自身の気持ちとして神さまのバックアップがあると思えることは心強いでしょう。
やはりパスカルが言ったように、神さまを信じて正直に生きることが自分自身の人生にとっては大きなメリットがあるんだということですね。
まとめ、感想
こう言う本を読む人は二極化するのではないかと思うのです。
一つは自分には何もできないからやらない、そして神仏に縋って生きる人。
もう一つは努力を精一杯して、最後の一押しの神頼みをする人。
神社でのお願いは無駄である、ということは決してなく、前者であってもその人の心の平穏を得るためには神社が役立っていることを考えると、やはりだれにでもサポートがあると言えるでしょう。
しかしそんな神社のパワーを遺憾無く発揮してもらい、自分の人生に役立てるには、やはり人間の側もエネルギーの投入を行って、神さまからの支援をしっかり受け取れる状態になっておくことが重要と思うのです。
人間は生存に必要なこと以外も考えられるような巨大な脳を持っているが故に、さまざまな苦しみ(将来の不安や過去への後悔)を抱えています。
しかしその代わり、自分の能力を引き出して周囲との協調を生み出すための仕組みもう見出しました。
それが「神さま」などの超常的存在です。
神さまは人間が生み出した集合意識である、と本書でも言及されているように、人々の思いが積み重なって、その場の空気として取り巻いているものが、「神さま」とされているもの。
それは神域の空気や木や岩など、その場に合った依代に宿っているのですが、そうした存在の仕方が、実在はしない(から、依代を代表として敬う)が存在する、という表現になっていると思うのです。
空気を読みすぎる日本人らしい神さまの捉え方だなと思いますが、昔から日本に住む人が神さまをそのように崇めてきた歴史そのものが、現在にも引き継がれている神さまを存在せしめているのだなあと思うのです。
そして神さまたちに助けられていると思うからこそみんな正月には初詣にいくわけで。
将来の私たちの子孫も神さまに助けてもらえるように、今の私たちも神社へ言って、願望成就を願うことが大切なのでしょうね。
そう思うと神社に行って、自分の願いを純化して願うこと自体が、人の役にも立っていることにつながって、気持ちよく参拝できるようになりませんか?